、
「へえ」
と言って振返った。とある家の用水桶の蔭に真黒な二人、両方とも長い刀を差しています。そこで駕籠屋を不意に呼びかけたから駕籠屋も驚いたようであったし、通りかかった忠作も少し驚きました。
「駕籠をこれへ持って参れ」
「どうもお気の毒さま、これから蔵前《くらまえ》のお得意まで行くんでございますから」
「黙れ! 黙って駕籠を持って来い」
嚇《おどか》しておいて、長いのをスラリと引抜くのではなく、懐中から投げ出したのは若干の酒料《さかて》らしい。
用水桶の蔭に隠れていた浪人|体《てい》の怪しの者は、背に引きかけていた一人を労《いたわ》って駕籠の中へ入れると、
「旦那、どこまで行くんでございます」
「黙って拙者の行くところまで行けばよい」
駕籠|側《わき》に一人が附添うて無暗《むやみ》に走り出しました。
それを見ていた忠作は、何と思ったか蕎麦屋の荷物を抛り出して、一目散《いちもくさん》に駕籠の跡を追いかけました。
神田へ出て、日本橋を通って、丸の内へ入って、芝へ出て、愛宕下《あたごした》の通りをまだ真直ぐにどこまでともなく飛ばせる。ついに駕籠は芝の山内《さんない》へ入る。丸山の五重の塔、その五重の塔の姿が丸山の上に浮き立っているのを横目に睨《にら》んで、土塀だの、板塀の物見だの、長屋だの、いくつも廻って駕籠が飛んで行く。左右を見廻すと、やっぱり丸山の五重の塔。はてそれでは、あの塔のまわりをグルグル廻っているのかな。
そう思っているうちに、大きな土塀つづきで、右の五重の塔と向き合ったところに堂々たる黒塗の大門がある。その堂々たる大門のなかへ駕籠はスッスッと入って行きました。
何者の邸であろうか知らないが、入って行った者も武士の姿こそしているが、その仕業《しわざ》は武士ではない。この家から出てそういうことをさせるはずもなかろうし、外からそういうことをした者を内へ黙って入れるはずもなかろうと、忠作が思っていると、門番がいるのかいないのか知らないが、無事にスーッとその駕籠は門内へ納まってしまいました。
あの駕籠が通れるくらいなら自分も通れるだろうと忠作も、続いて入り込もうとすると、
「コラ、誰かッ」
雷《いかずち》のような一喝《いっかつ》。
「今のあのお乗物の……お乗物の」
「乗物がどうした」
「あれは当家の御家中のお侍でございますか」
「馬鹿!」
頭から一喝した仁王のような門番が取って食いそうな権幕《けんまく》ですから、忠作は怖ろしくなって飛び出しながら、黒塗の堂々たる大門を見上げると、正面三カ所に轡《くつわ》の紋があります。
この門をよく見直すと、左右に門番があって、屋根は銅葺《どうぶき》の破風造《はふづく》り、鬼瓦《おにがわら》の代りに撞木《しゅもく》のようなものが置いてあります。
土塀を一周り廻った忠作が通りの町家で聞いてみると、これは薩州鹿児島の島津家の門だと知れました。
鹿児島の島津家といえば九州第一の大大名。その門と邸の結構の堂々たることはさもあるべきことだが、わからないのはそこから強盗が出て町家を荒して歩くということです。あの二人の者はたしかに自分の家へ入った浪人|体《てい》の強盗。その一人はどうやら手傷を負うたらしい一味の者。
それを無事に門内へ入れたところを見ると、これは疑うべくもなきこの邸内の人、そうしてみれば薩州の家来には、強盗を内職にしている者があるはずである。いかに乱世とは言いながら、大名の家来が強盗を内職にしているというのは、あるべきことではありません。
その晩はそれで帰って翌日、忠作は神田佐久間町の裏長屋を引払って、この薩州の屋敷の傍へうつることにしました。幸い、三田の越後屋という蕎麦屋《そばや》に雇人の口があったから、すぐそこへ雇われました。忠作がこの蕎麦屋へ奉公して見ると、この界隈《かいわい》の物騒なことは、神田や本所のそれ以上でありました。越後屋は大きな蕎麦屋で、奥座敷などがいくつもあるが、その奥座敷はしばしば一癖ありげな侍に借り切られることがあります。忠作は算勘《さんかん》が利《き》いて才気があったから、出前持をせずに帳場へ坐らせられることになって三日目の晩、店へ現われた田舎者体の男と計らず面《かお》を見合わせて、
「おや、お前さんは……」
「お前さんは……」
これは甲州の、徳間入《とくまいり》の川の中以来の会見であって、田舎者らしい男は七兵衛であります。
七兵衛は奥座敷を一つ借り切って、そこで一人で飲んでいると、暫らくして忠作がやって来て一別以来の話になりました。
お絹のことや、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことが出て、七兵衛はかなり忠作をからかっていたが、
「私の姪《めい》がこの蜂須賀《はちすか》様に御奉公をしているんで、それでこうしてやって来ましたよ」
六
七兵衛がここで姪と言うたのはお松のことであります。お松はこの時分、徳島藩の中屋敷へ奉公をしておりました。徳島藩の中屋敷は薩州の邸とは塀一つを隔てたところにあって、お松はそこに奉公してから日もまだ浅いけれども、目上にも朋輩《ほうばい》にも信用され可愛がられて、前に神尾の邸にいた時のような危ないことは更になし、まことに無事に暮しておりました。
この際お松は、今までにない一つの縁談をほのめかされました。この話は至極《しごく》実直に持ちかけられ、そうして自分の身を落着けるには、決してためにならないところではないし、自分もまた身を落着けてから、見込んで世話した人の鑑識《めがね》を裏切るようなことはないつもりだと、自信はしているけれども、お松はどうしてもそれを承諾する気にはなれませんでした。
断わるならば何と言って断わろうか知ら、それが一つの難題で、せっかくああ言ってくれる親切を無下《むげ》に断わってしまえば、おたがいに気まずくなって、また自分はこのお邸を出なければならないことになるかも知れぬ、そうなるとまた落着くところに迷うかも知れぬ。お松はその晩、散々《さんざん》にこのことを考えてしまいました。
無事に暮らしていたけれども、兵馬のことを考えないわけにはゆきません。兵馬のことは忘れたことはないのに、幾度もそれを考え直さねばならなくなりました。
深いようで浅い二人の縁、浅いようで深い二人の間、お松にはそれをどうしてよいのかわからない。兄妹のようにして永らく一緒にいたけれど、どうも物足りない。兵馬その人に不足はないけれど、自分よりは仇討の方をだいじがる兵馬が、お松にはどうしても物足りないのでした。
と言って兵馬さんは、わたしを可愛がらないのではない、わたしをいちばん可愛がっているし、わたしもまた兵馬さんがいちばん可愛ゆいけれども、それだけでは頼りがない。わたしがここでほかへお嫁に行ってしまっても、兵馬さんは口惜しいとも悲しいとも思いはしないで、かえって祝って下さるでしょう、それでは詰らない。お嫁に行ってしまったのを、喜んでくれるような可愛がり方ではそれでは詰らない、とお松はそれを物足りなく思いました。駿河《するが》の清水港で別れてから、船と共に江戸へ着いたお松。船頭が徳島藩の出入りでここへ世話をされて来てから、兵馬の便りは一度、甲府からあっただけでした。七兵衛は二度ばかり訪ねてくれたけれども、いつも風のように来て風のように帰ってしまう。
その度毎に手紙を書いて置いて、それを兵馬の手許《てもと》に届けてもらうことをお松は何よりの楽しみにしていました。近いうちまた七兵衛が来るはず、お松はこのごろ、部屋にさがると毎夜のように手紙を書くことばかり。今もいろいろと思い悩まされた揚句《あげく》が、その思いだけを紙にうつすことによって、その憂《うさ》を晴らそうとしました。
お松は自分の今の生活が至極《しごく》平穏無事であること、御殿でも皆の人に可愛がられて昔のような心配は更にないこと、朝夕|朋輩衆《ほうばいしゅう》と笑いながら働いていることなどを細々《こまごま》と書きました。自分の身はそんなに無事幸福であるけれども、江戸市中は日に増し物騒になって行って、兇器《きょうき》を抜いた浪人者が横行したり、貧窮組が出来たり、この末世はどうなって行くことかと市民が心配していること、それゆえ滅多《めった》に外出はできないこと、附近に薩州を初め内藤家、久留米《くるめ》藩などの大きな屋敷があって、ことに隣りの薩州家などは浪人者がたくさんに出入りして、朝夕戦場のように見えることもあるけれど、こちらのお屋敷は静かであることなどを書きました。そうして幾度か読み直したりした上で、封をしてしまいました。
それを枕元に置いてお松は床に就きましたが、兵馬のことを夢に見ました。夢に見た兵馬は嬉しい人であったが、やっぱり物足りない人でありました。
翌朝起きて見ると、昨夜書いて机の上に載せて置いた自分の手紙の上に、それとは全く別の人の書いた一封の手紙が載せてあります。
「誰が置いて行ったのでしょう」
お松はその手紙を取り上げて見ると、七兵衛の手蹟《しゅせき》でありました。
封を切って読むと、
「兵馬様の身の上に変事が出来たから急に相談したい、少しばかり暇を願って、越後屋まで来るように」
とのことであります。
お松は胸が潰《つぶ》れる思いがして、すぐさま朋輩に頼んで少しばかりの暇をこしらえて、越後屋の奥座敷へ訪ねてみますと、七兵衛が待っていました。
「突然にああ言ってやったから驚いたろう。困ったことが出来たというのは、兵馬さんが縛られて、甲府の牢へ入れられてしまったことだ」
「ええ、あの方が縛られて牢へ? それはいったい、どうしたわけでございます」
「そのわけにはなかなか入り組んだ仔細《しさい》があるのだが、人違いなのだ、人違いで捉まって、甲府の牢へ入れられている。運は悪く、悪いところへ通りかかったのが兵馬さんの因果、身の明りの立つまでは、ああして甲府の牢内に窮命《きゅうめい》しておいでなさらなくてはならねえ」
「どうしてそんな悪いところへ通りかかったのでございます」
「盗賊《どろぼう》だ、盗賊のかかり合いだ」
「盗賊! そんなことはありますまい、なんと間違って兵馬さんが盗賊なんぞと……そんな間違いのあるはずがございませんもの。伯父さん、早く心配して、兵馬さんの身の明りが立つようにして上げてください」
「それについて、俺も実に困ったのだ、とてもあたりまえのてだてで兵馬さんの明りを立てることはできないから、仕方がないからお前に相談に来たのよ」
「だって伯父さん、盗賊をしない者が盗賊の罪を被《き》るなんて、お役人だってわかりそうなもの、盗賊をするような人としない人とは一目見てわかりそうなもの、伯父さんが早く行って、兵馬さんはそんな人ではございませんと明りを立てておやりなされば、お役人が直ぐに御承知になりそうなものではございませんか」
「いや、役人も兵馬さんが盗賊するような人でないことはよく御存じなのだが、どうもちょうど、御金蔵へ盗賊が入った晩、兵馬さんがちゃんと身拵えをしていたのだから、どうしても、ほんものの盗賊が出て来るまでは、兵馬さんは赦《ゆる》されまいとこう思うのだ」
「そんなら早く、そのほんものの盗賊が捉まるように骨を折って上げてくださいまし」
「それはずいぶん骨を折るけれども、なにしろ悪いことをするような奴だから、どこにいて、いつ捉まるかわからねえ。それについてお松、お前に相談だが、俺がひとつ兵馬さんを牢内から盗み出して来るから、お前どこかへ兵馬さんを当分かくしてくれないか」
「ええ? 兵馬さんを御牢内から盗み出して来るって、伯父さんが?」
お松は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「伯父さん、そんなことをしないで、お役人によく仔細《わけ》を話して、そうでなければほかにその道の人を頼んで、兵馬さんを助けるようにして上げてくださいまし、お上《かみ》の牢内から盗み出すなんて、そんな危ないことをしてはおたがいのためにならないではありませんか」
「それだ、なにしろ今の時勢
前へ
次へ
全14ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング