ら》し候所、何者の仕業に候|哉《や》、取片附け候段、不届|且《かつ》不心得につき、必ず吟味を遂げ同罪に行ふべき者也。
月 日[#地から3字上げ]報国有志
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此高札三日の内、取片附け候者|有之《これあら》ば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也」
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米友はその文句を読んでしまったが、腑《ふ》に落ちないことがありました。
「この札はこりゃ誰が立てたんだ」
米友は独言《ひとりごと》のように聞いてみましたけれど、誰も返事をするものがありません。
「この高札三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也てえのは穏かでねえ」
米友が仔細《しさい》らしくこんなことを言い出したから、集まっていた人は、それを聞いて滑稽に思うよりは怖ろしく感じました。そうして何者がそんなことを言うかと思って、声の出たところをよく見ると、人の股《また》の間にモゴモゴしている米友でしたから、みんなプッと吹き出しました。
米友にとっては笑われる自分よりも、笑うやつらの方がおかしい。単純な米友は、理由なきに冷笑されたことを不本意として、ムッとしてきました。
「何がおかしいんだい、俺《おい》らの言うことが何がおかしいんだい」
「若い衆、そう怒るもんじゃねえよ」
米友がムキになったのをなだめたのは老人。
「こりゃ天誅組というやつなんだから、お役人でも始末にいかねえんだ」
「天誅組というのは何でございます、お爺さん」
米友は老人の面《かお》を見上げる。
「天誅組というのは、このごろ流行《はや》り出した悪い貼紙《はりがみ》で、疱瘡神《ほうそうがみ》よりもっと剣呑《けんのん》な流行神《はやりがみ》だ」
「そんな剣呑な流行神を平気で眺めている奴の気が知れねえ」
見物はまたドッと笑い出して、
「うむ、全く気が知れねえ、若い衆、お前なんとかひとつ、その流行神を始末してみねえな、人助けになるぜ」
「ばかにするない」
米友が眼をクルクルして群集を見廻した、その面《かお》つきと身体《からだ》を見て群集はやはり笑わずにはいられません。高札《こうさつ》よりもこの方がよほど見栄《みば》えがあると思って、
「豪《えら》い!」
拍手喝采してこの奇妙な小男の、本気になって憤慨するのを弥次《やじ》り立てて楽しもうとすると、米友はかえってそれらを相手にはしないで、欄干に結びつけてあった高札の縄目を解きにかかったから、
「おやおや」
弥次連の面《かお》の色が変ります。
「おい、若い衆、小せえの、何をするんだい」
慌《あわ》てて留めたのは老人。
「冗談《じょうだん》じゃねえ、煽《おだ》てに乗るも大概がいい、その高札へお前、指でも差そうものなら、大変なことになるぜ、引込んでいなせえ、いなせえ」
「ナニ、かまわねえ」
「三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきものなり――この字がお前にも読めたんだろう、天誅というのは首が飛ぶことなんだ、いいかい、この高札を動かそうものなら、お前の首がなくなるんだ、お前が遠からず首を斬られてしまうんだぜ」
「誰が俺らの首を斬りに来るんだ」
「天誅だよ、天誅だよ」
「天誅が首を斬りに来るのか。天誅というのは何だ、俺らはまだ天誅に首を斬られるような悪いことをした覚えはねえ」
米友は留めてくれる老人の手を振り払って苦もなく高札の縄を解いてしまい、その高札を振り上げて橋の上から川の中へポンと投げ込んでしまいました。
「無茶なことをする奴だ」
さすがの弥次馬《やじうま》も舌を振《ふる》ってしまいました。
これが不思議な縁で米友は、その翌日から本所の相生町《あいおいちょう》の箱屋惣兵衛一家の留守番になってしまいました。それで鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋から気軽くそこへ移ってしまいました。
この縁は昨日の高札の一件からであります。米友が高札を川へ抛《ほう》り込んだために、町内からこの家の留守番を押《おっ》つけられたものです。
米友もまた押つけられたことをかえって幸いにして箱惣《はこそう》の留守番を欣《よろこ》んで引受けてしまいました。
米友が留守番を押つけられた箱惣の家は大きな家でした。けれども誰も一人も住んではいないのです、ガラあきです。ただの空家《あきや》と違って誰も留守居をし手[#「し手」に傍点]のない空家なのです。昨日、米友が投げ込んだ札の文句にも、「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金を請ひ、府下の模様を内通致し、剰へ婦人を貪り候段……」とある通り、浪士たちに悪《にく》まれてツイこの間の晩、首を斬られて、両国橋へ梟《さら》し物にかけられた惣兵衛の家です。その首が誰がどうしたか直ぐに片附けられてしまうと、その後へ立てられた高札がすなわち米友の川へ投げ込んだものであります。その後難《こうなん》の人身御供《ひとみごくう》の意味で留守居を押附けられ、米友は、主人の居間であった贅沢《ぜいたく》な一間でゴロリと横になっている。その傍には例によって槍が一本あります。
何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は疚《やま》しいところがないと、ひとりで力《りき》んでいたけれど、二晩三晩というものは、サッパリ何も手答えがないから、米友も力瘤《ちからこぶ》が弛《ゆる》んできました。四晩目の晩、雨が降って鬱陶《うっとう》しいものだから、行灯《あんどん》の下で、やはり寝ころんで絵草紙を見ていました。
「今晩は――今晩は」
二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、
「今晩は」
返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。
「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」
「今晩は」
「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」
「あの、仕出し屋でございますが……」
ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから入用《いりよう》はないと思って、
「弁当箱を取りに来たのかい」
「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」
「ナニ、俺《おい》らに一口上げてくれって? そんな人はいねえはずだが」
「どうかここをおあけなすって下さいまし」
「どうもおかしいな」
米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた番傘《ばんがさ》を被《かぶ》って岡持《おかもち》を提げて立っています。
「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」
「町内の衆でございます」
「町内の誰だろう」
「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」
「俺らの方ではよくわからねえ」
米友は一合の酒と鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を受取りました。仕出し屋の女は帰ってしまいます。米友は、またもとのところへ帰って、鰻の丼と一合の酒を前に置いて、しきりにそれをながめていました。一合の酒も飲んでみたくないことはない、鰻の丼も食慾を刺戟しないこともない、けれども町内の誰がよこしたんだか、それがわからないのが不足である。うっかり御馳走になっていいものだかどうだか……米友は一合の酒と鰻の丼を後生大事《ごしょうだいじ》に睨《にら》めていました。
一合の酒と鰻の丼を睨めている米友。
「飲んでしまおうか、それとも飲まずにいた方がいいか、この鰻の丼も食ってしまえばそれまでだが、食わずに置いてみたところでそれまでだ」
米友はいろいろに考えてみたが結局、この無名の贈り主から贈られた酒は一滴も飲まず、丼は一箸《ひとはし》も附けずにほっておく方がよろしいと覚悟をして、床の間の方へ持って行って飾って置きました。飾って置いてそれをやや遠くからまた暫らくながめていたが、
「こうして俺らに酒を飲ましておいて、酔ったところを見計らって計略にかけるつもりだとすると、そんな計略にひっかかっても詰らねえ」
誰も米友を毒殺しようというほどの物好きもなかろうけれど、米友の方でとうとう一合の酒と鰻の丼を敬遠してしまって、それからまた本を見だしていると、
「今晩は」
またも表で人の声、前と同じように女の声。
「誰だ」
「仕出し屋でございます」
「ちェッ、また仕出し屋か」
「まことに相済みませんが、先程のお丼と御酒《ごしゅ》は間違いました」
「ナニ、間違えたって?」
「御近所へ持って上るのを、つい間違えまして申しわけがございません」
「そんなことだろうと思った、俺らに御馳走してくれる奴はないはずなんだから」
米友は跛足《びっこ》を引きながら、いま床の間へ飾って置いた一合の酒と丼、果して手を附けなかったことの幸いを感じて、それをそっくり持って来てやりました。仕出し屋の女中の方では、食われてしまってもこちらの粗忽《そこつ》だから文句のないところへ、米友が手を附けずに返してくれたのだから大へん喜びました。
「気をつけなくっちゃいけねえ、俺らだから手を附けなかったが、ほかの者なら食ってしまうんだ、俺らも実は食ってしまおうかどうしようかといろいろ考えたんだ」
「どうも相済みません」
仕出し屋の女はきまりの悪い面《かお》をして、一合の酒と鰻の丼を持って急いで敷居を跨《また》いで外へ出ました。米友は一合の酒と鰻の丼の香《におい》ばかりで妙な面をして見送っていたが、表を二三間も歩いたと思われる仕出し屋の女中が、
「あれ――」
ガチャン、ピシーンという音。それによって見ると、女中はその辺で転んで倒れて泥濘《ぬかるみ》の中へ、せっかくの一合の酒も鰻の丼もみんなブチまけてしまったようですから、米友は舌打ちをして、
「だから言わねえことじゃあねえや、そそっかしい女だなあ」
潜《くぐ》り戸《ど》から面《かお》を出して、雨の降る暗いところで転んだ女中をたしなめようとする途端《とたん》、
「静かにしろ」
その潜り戸から跳《おど》り込んだ二人、小倉の袴に朱鞘に覆面、背恰好《せいかっこう》とも、忠作の家で金目の葛籠《つづら》を奪って裏口から悠々と逃げた強盗武士そのままの男であります。
「さあ来やがった」
覚悟の上。米友は不自由な足ながら傘《からかさ》のお化《ば》けのように後ろへ飛んで返って、以前の一間に置いてあった槍を手に取りました。
「待ってたんだ、両国橋の立札を川ん中へ抛り込んだのは俺らの仕業《しわざ》に違えねえ、さあ何とでもしてみろ、宇治山田の米友の槍を一本くらわせてやる」
米友の槍は、これを侮《あなど》っても侮らなくても防ぐことはむずかしいものです。
「呀《あ》ッ」
内へ転げないで外へ転げた覆面の浪士は、米友の一槍で太股《ふともも》のあたりをズブリと刺されたらしい。
五
せっかく金貸しを始めた忠作、あの夜の一騒ぎから滅茶滅茶になってしまって、お絹はどこへ行ったか行き方が知れないし、金目の物はことごとく奪われてしまいました。
「癪《しゃく》にさわる、あの貧窮組というやつが癪にさわる。それにあの浪人者。浪人者というやつがあっちにもこっちにもウロウロして事あれかしと覘《ねら》っていやがる。貧窮組というやつはワイワイ騒ぐだけだが、浪人者というやつは大ビラで強盗《ぬすっと》をして歩くようなものだ。こうして歩いているうちにはどこかで出会《でくわ》すだろう、出会したら後をつけて手証《てしょう》を押えて町奉行へ訴え出るんだ。こっちも意地だ、キット尻尾《しっぽ》を捉まえて見せる、おれの家から取って行ったものだけは、取り返さなくっておくものか」
忠作は歯噛みをしながら、このごろでは毎夜、蕎麦屋《そばや》の荷物を担《かつ》いで、蕎麦は売ったり売らなかったりして、夜遅くまで市中を歩いて佐久間町の裏長屋へ帰ります。今宵は浅草方面から売り歩いて両国橋手前まで来ると、
「駕籠屋」
闇の中から人の声。それに呼ばれて朦朧《もうろう》の辻駕籠《つじかご》が
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