いで、小無頼漢のうちの抜目のないのがこれを利用することになりました。
 困ったのは道庵先生で、本業の医者をそっちのけにして貧窮組の太鼓を叩いて歩いています。因果なことに先生には、こんなことが飯よりも好きなので、ただ嬉しくてたまらないのです。嬉しまぎれに、一種の煽動者となってしまったけれど、時々穏健な説を唱えて、たいした乱暴を働かせまいと苦心しているのは感心なものです。
 この貧窮組が昌平橋に夜営している時分に、これより程遠からぬところに住居《すまい》している金貸しの忠作は、お絹と夕飯を食いながら、呟《つぶや》いて言うには、
「悪いことが流行《はや》り出した、ここは表通りではないけれど、そのうちには何か集めに来るだろう、その時は手厳《てきび》しく断わってやる」
 お絹はそれに対して、
「そんなことをして悪《にく》まれるといけないから、少しぐらい出してやった方がよいだろう」
「いけません、癖になるからいけません、あんな性質《たち》の悪い組合をお上が取締らないというのが手緩《てぬる》い」
 忠作は子供のくせに、このごろではもう前髪を落して、肩揚《かたあげ》の取れた着物を着て、いっぱしの大人ぶっています。
「でも、大勢に悪《にく》まれてはつまらない」
 お絹は気のない面《かお》をしていたが、忠作はいっこう撓《ひる》まずに、
「貧乏な奴は日頃の心がけが悪いんだ、有る時は有るに任せて使ってしまい、無くなると有る奴を嫉《そね》んで、あんな騒ぎを持ち上げる、あんなのを増長させた日には、真面目《まじめ》に稼《かせ》いでいる者が災難だ、わしは鐚一文《びたいちもん》もあんなのに出すのは御免だ」
「そんな一国《いっこく》なことを言って、大勢の威勢で打壊《ぶちこわ》しにでも会った日には、ちっとやそっとの金では埋合せがつかない」
「たとえ打壊しに逢ったからと言って、あんな筋の違ったやつらに物を出してやることはできません。あんなのが出来たために日済《ひなし》の寄りの悪いこと。いったい役人が何をぐずぐずしているんだろう、いちいち括《くく》り上げて牢へぶち込むなり、首を斬るなりしてしまえばいいのだ」
 こんなことを言っている時に、表の戸がガラリとあいて、
「へえ、御免下さいまし、町内でもいよいよ貧窮組をこしらえますから、お宅様でもどうか応分の御助力を願いたいもので」
 ドヤドヤ入って来たものがあります。
「それ、やって来た」
 忠作は苦い面《かお》をして玄関へ出て見ると、威勢のよい遊び人風をしたのが二三人先へ立って、あとは雑多の貧窮組。
「へえ、御存じの通り町内でも貧窮組をこしらえましたから、こちら様でも、どなたかおいで下さるように。もしお手少なでございましたら、幾分か費用の寄進についていただきたいものでございます」
 それを聞いた忠作は、
「せっかくでございますが、私共は無人《ぶにん》でございますから」
「それではどうか、思召しの寄進をお願い申します、この通り町内様でみんな賛成をしていただいたんでございますから」
 帳面を繰りひろげて、鰻屋《うなぎや》では米幾俵、薪炭屋《すみや》では店の品|幾駄《いくだ》というように、それぞれ寄進の金高と品物の数が記されたのを見せると、
「宅《うち》なんぞはこの通り裏の方へ引込んでおりまして、とても表通りのお歴々と同じようなお附合いは致し兼ねまする、どうかそれは御免なすって下さいまし」
「それでは、誰か貧窮組へ出ておくんなさるか」
「宅は女と子供ばかりで」
「やい、ふざけやがるな、貧窮組を何だと思ってるんだ、ぐずぐず吐《ぬか》すとこっちにも了簡《りょうけん》があるぞ」
「皆さんの方に了簡がおあんなさるなら、了簡通りになさいまし、宅では貧窮組なんぞへ入る人間は一人もございませんし、そんなところへ出すお金なんぞ鐚一文もございません」
「何だと、この若造! やい、みんな聞いたか、今のこの野郎の言草《いいぐさ》を聞いたか」
 威勢のいい兄《あに》いが片肌を脱いでしまいました。それに続いた面々がみな眼を三角にする。
「貧窮組なんぞへ入る人間は一人もねえんだとよ、そんなところへ出す銭は鐚一文《びたいちもん》もねえんだとよ、みなさん方に了簡がおありなさるなら了簡通りになさいましと吐《ぬか》したぜ。べらぼうめ、了簡通りにしなくってどうするものか、貧窮組を何だと思ってやがるんだ、憚《はばか》りながら貧窮組は貧乏人だ」
「ここの宅《うち》は、これで金貸しをしてやがるんだ、貧乏人泣かせの親玉はここの宅なんだ、いまのあのこましゃくれた若造が、あれで鬼みたような奴なんだ、主人はお妾上りだということだ、金持を欺《だま》して絞り上げたその金で、高利を貸して、今度は貧乏人の生血《いきち》を絞ろうというやつらなんだ、だから貧窮組が嫌いなんだろう、誰も貧乏の好きな者はねえけれども、時世時節《ときよじせつ》だから仕方がねえや、ばかにするない」
「貧乏人がどうしたと言うんだい、そりゃ銭金《ぜにかね》ずくでは敵《かな》わねえけれど頭数《あたまかず》で来い、憚りながらこの通り、メダカのお日待《ひまち》のように貧乏人がウヨウヨいるんだ、これがみんなピーピーしているからそれで貧乏人なんだ、金があるといってあんまり大きな面《つら》をするない、これだけの頭数はみんな貧乏人なんだ、逆さに振《ふる》ったって血も出ねえんだ、その貧乏人が組み合ったから貧窮組というんだ、貧乏でキュウキュウ言ってるからそれで貧窮組よ、ばかにするない」
 大勢の貧窮組が口々に悪態《あくたい》をつき出したけれど、忠作は意地っ張りで、
「何とおっしゃっても私共は、皆さんが貸せとおっしゃるから貸して上げるだけの商売でございます、なにも皆さんに筋の立たない金を差上げる由がございませんから」
 こう言い切って、玄関の戸をバタリと締めてしまって、中へ引込んだから納まらない。
「それ、打壊してしまえ」
 ついに貧窮組がこの家の打壊しをはじめました。
 貧窮組の一手は、ついに忠作の家をこわし始めました。火をつけると近所が危ないから火はつけないで、門、塀、家財道具を滅茶滅茶に叩き壊します。忠作は素早く奥の間に駈け込んで、証文や在金《ありがね》の類を詰め込んで用心していた葛籠《つづら》の始末にかかると、いつのまに入って来たか覆面《ふくめん》の大の男が二人、突立っていました。
 この大の男は、貧窮組とは非常に趣を異にして、その骨格の逞《たくま》しいところに、小倉《こくら》の袴に朱鞘《しゅざや》を横たえた風采が、不得要領の貧窮組に見らるべき人体《にんてい》ではありません。忠作が始末をしている葛籠のところへ来て、黙って忠作の細腕をムズと掴んで捻《ね》じ倒すと同時に、一人の男はその葛籠を軽々と背負って立ち上ります。
「どろぼう!」
 忠作が武者振《むしゃぶ》りつくのを一堪《ひとたま》りもなく蹴倒《けたお》す、蹴られて忠作は悶絶《もんぜつ》する、大の男二人は悠々《ゆうゆう》としてその葛籠を背負って裏手から姿を消す。
 貧窮組は表から盛んに叩きこわしていたが、いいかげん叩きこわしてしまうと、鬨《とき》の声を揚げて引上げました。
 もとより宿意あっての貧窮組ではないから二度まで盛り返して来ず、昌平橋へ行ってお粥《かゆ》を食っています。貧窮組はこのくらい、無邪気といえば無邪気なものだけれど、合点のゆかないのは朱鞘《しゅざや》を横たえた小倉袴の覆面の大の男。表で無邪気な貧窮組を騒がしておいて、金目の物を引浚《ひっさら》って裏から消えてしまうというのは、武士にあるまじき行いであります。
 この勢いで貧窮組は江戸の市中へ蔓延《まんえん》して、ついには貧窮組へ入らなければ人間でないようになってしまいました。男ばかりではない、女も入らなければならないようになりました。職人は職人同士、芸人は芸人同士で貧窮組を作らなければならない義務が出来て、まんいち貧窮組に加入していないことが知れようものなら、人間の仲間を外されて非人の仲間へ組入れられなければならなくなりました。そうして貧窮組はついに江戸市中を風靡《ふうび》してしまったけれど、その不得要領なことはいつまでたっても不得要領で、お粥を食って歩くこと、せいぜい忠作の家を叩き壊すくらいのところであったが、解《げ》せぬのはその貧窮組が騒いで行ったあとで、必ず貧窮組らしくない仕業《しわざ》が二つ三つは必ず残されていることです。この手段は前の忠作の家を荒した時と同じような手段で、表で貧窮組が騒いでいる時、裏で、前に見る通り、朱鞘を差した堂々たる武士が仕事をするのであります。
 その強奪《ごうだつ》の仕方があまりに大胆で大袈裟《おおげさ》で、しかも遮《さえぎ》る人があっても人命を殺《あや》めるようなことはなく、衣類や小道具などには眼もくれず、纏《まと》まった金だけを引浚《ひっさら》って悠々として出て行く。
 不得要領でどこまでも拡がってゆく貧窮組。それと脈絡があってこの強盗武士に要領を得さするものとすれば、貧窮組も決して不得要領ではないけれど、貧窮組にそんなアクドい根のないことは、その成立の動機が煙みたようなのでわかるし、そのなりゆきがお粥以上に出でないのでわかります。しからばその貧窮組を表にして、それとは全く没交渉《ぼっこうしょう》でありながら、巧《たく》みにそれをダシに使って大金を奪い歩く武士体《さむらいてい》の強盗は果して何者。そうしてその盗った金を何事に使用するのだろう。市中の大商人で、この朱鞘の武士の強奪に会ったものは無数であったけれども、後の祟《たた》りを怖れてそれを表立って申し出でない。申し出でても当時の幕府の威勢では、それを充分に取締るの力さえなかったものです。

         四

 徳川幕府の影が薄くなって、そのお膝元《ひざもと》でさえこの始末。
 貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と覚《おぼ》しき強盗が蔭へ廻って悪事を働き、なお火事場泥棒式の悪漢が出没するけれども、それを取締る捕方《とりかた》は出て来るという評判だけで、ちっとも出て来ません。
 人形町の唐物屋《とうぶつや》を貧窮組が叩き壊した時は、朝の十時頃から始めて家から土蔵まで粉のように叩き壊してしまいました。いくら多勢の力だからと言って、これは人間業とは思われませんでした。表の店の鉄の棒が、飴を捻《ねじ》るように捻切ってありました。それを捻切ったのは十五六の子供であったということ、それは天狗の子に相違ないということ、天狗の子供が先に立って、大勢の指図をして歩くのだというようなことが言い触らされました。
「天誅《てんちゅう》」の文字が江戸の市中にも流行《はや》り出して来て、市民を戦慄《せんりつ》させたのはそれから幾らもたたない時でありました。この「天誅」の文字は大和の「天誅組」から筋を引いたものかどうかわからないが、武士と武士との間に行わるるのみではなく、町人にまで及びます。ひそかに人の首を斬って、橋の上や辻々へ捨札《すてふだ》と共に掛けて置きます。市民の財産の危険はようやく生命の危険に脅《おびや》かされてきました。
 さても本所の鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋《さがみや》という夜鷹宿《よたかやど》へ、やっと落着いた米友は、お君から何かの便りがあるかと思って、前に両国の見世物を追い出された晩、お君と二人で宿を取った木賃宿へ行って様子を聞いて、まだ何も消息がないと聞いて失望して、帰りがけに、両国橋を渡りかかると、多くの人が橋の上に立っていますから、米友もなにげなく覗《のぞ》いて見ました。米友ではとても人の上から覗き込むことはできないから、人の腰の下から潜《もぐ》るようにして見ると、橋の欄干《らんかん》へ板札が結び付けてあります。米友は学者(お君に言わせれば)ですから直ぐにその板の文句を読むことができました。
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「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来|賄金《まひなひきん》を請ひ、府下の模様を内通致し、剰《あまつさ》へ婦人を貪り候段、不届至極につき、一夜天誅を加へ両国橋上に梟《さ
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