離れようといったって離れられるわけじゃない、それに君ちゃんは花形だから、親方の方でもはなすことじゃありません、それを振り切って行くくらいなんだから仕合せ者だよ」
美人連はこんなことを言って米友を口惜《くや》しがらせました。
「本当のことを言ってくれよう、本当のことを」
米友は焦《じ》れて歎願するように言いました。
「本当のことはね……本当のことは、やっぱり君ちゃんだけは旅から帰っていないんだよ」
「ほんとうに帰らないんだね」
「それはほんとうだよ」
「よし、それじゃ俺らがその甲府というところへ行く、そうして君ちゃんに会って話をしてみりゃわかることなんだ。甲府は何というところで、何という人の家にいるんだ、それを教えてくれ」
米友はこう言ってせきこんだけれど、女軽業の美人連はそれほどに行詰ってはいないから、
「まあ、ゆっくりと旅の話をしてあげるから上って休んでおいでよ、お茶を入れるから」
これらの美人連も一蓮寺では、お君とムクのおかげで危ないところを救われているのだから、それを思えば、お君のためにも米友のためにも、もっと親切に身を入れて応対をしてやらなければならないのですけれど、米友をあんまり軽く見ているから、ツイ身が入らないのでした。
「ちぇッ」
米友は、もどかしさに舌を鳴らして、気がいよいよ焦立《いらだ》ちました。
「だから旅へ出るのをよせと言ったんだ、それをきかないで出たから悪いんだ。ムクだってそうだ、なんとか役に立ちそうなものじゃねえか、ちぇッ」
米友が舌を鳴らして立っているところへ、お角《かく》が帰って来ました。
「親方のお帰り」
と言って、美人連の迎えを受けて楽屋へ入って来たお角が米友を見ると、眼に角《かど》を立てて、
「おや、見慣れない人が来ているよ。誰かいないの、ナゼあんな人をここへ通したんだろう、ここへ通して都合のいい人だか悪い人だかわかりそうなものじゃないか、あんな人が小屋の廻りにウロウロしていて人気に触らないと思うのがお目出度いね、ほんとに気の利かないやつらだ」
お角の機嫌が大へんに悪い。美人連のうちの一人が米友の傍に寄って来て、
「お前さん、早くお帰り、親方に怒られると大変だから」
十四
軽侮《けいぶ》と冷淡の限りを浴びせられて米友は、悲憤を怺《こら》えながらこの小屋を出て来ました。ことに親方のお角はどういう虫の居所《いどころ》か、頭ごなしに米友を罵《ののし》って、水を浴びせかけないばかりにして、米友を追い出させてしまいました。
いつもの米友ならば我慢しきれないところでしたけれども、感心に深く争わずしてこの小屋を出たのは、日の暮れる時分でありました。
さすがの米友もこの時は、実に口惜《くや》しかったと見えて、両国橋の真中に来た時分に、立ち止まって橋の欄干《らんかん》から下を覗きながら口惜し涙をハラハラと落します。
いくら自分が粗忽《そこつ》で黒ん坊を失敗《しくじ》ったからと言って、せっかく聞きに行ったのだから、一通りの消息ぐらいは知らせてくれてもよかりそうなものを、ああして寄ってたかって冷かした上に、ガミガミと突き出してしまうことは、いくら稼業柄《かぎょうがら》とは言いながら薄情なやつらだと、それで口惜しくてたまりませんでした。
「腹が立ってたまらねえ」
米友は歯噛みをして、両国広小路見世物小屋の方を睨《にら》めました。
「覚えてやがれ」
米友の面《かお》に殺気が浮びました。広小路の見世物小屋の方を睨んで、
「覚えてやがれ」
橋の真中から相生町《あいおいちょう》の方へ歩き出すと、
「もし、兄《にい》さん」
と肩を叩いたものがあります。
「誰だ」
米友が振返って見ると七兵衛でありました。もとより米友は七兵衛を知らないが、七兵衛は米友に見覚えがあります。
「兄さん、お前さんはこれからどこへおいでなさるのだ」
「どこへ行ったっていいじゃねえか」
「さっきからここで見ていると、お前さんは何か心配がおありなさるようだ」
「大きにお世話だ」
米友は七兵衛の面《かお》を睨みました。
「私は通りかかりの者だが、どうやらお前さんの姿に見覚えがあるから、失礼なことだが暫らく立って見ていました、そうするとお前さんがしきりに何か言って腹を立っておいでなさるようだから、もしも変な気を起してざんぶりとおやりなさるのかと思って、こうして両手を出して見ていましたよ」
「大きにお世話じゃねえか、川へ飛ぼうと首を縊《くく》ろうとお前たちの世話にゃならねえ」
米友は悲憤の思いでいっぱいですから、何を言っても耳へは入りません。
「兄さん、もしお金にでも困るようなことがあったら、ずいぶん力になって上げようじゃないか」
「大きにお世話だと言うに。いつお前に俺《おい》らが金を借りたいと言ったい」
「そうガミガミ出られちゃあ、せっかく親切に話をして上げても何にもならない」
「俺らはお前に親切をしてくれろと言った覚えはねえ」
「でも、こうして身投げでもしようというには、よくよくのことがあるんでしょう、御主人のお金を遣《つか》い込んだとか、身の振り方に困ったとか、何かよくよくのことがあるから、そんな無分別な考えを起すんだろう、それを通りかかって見れば、みすみす見捨てて行くのは人情としてできないことだから、それで大きにお世話だが、言葉をかけてみる気になりました」
「いつ、俺らが身投げをすると言ったい、お前《めえ》、俺らがここにいたって、身投げをするつもりでここにいるんだか、また別に何か考えているんだか、人の心持がよくわかるね、お前の方で身投げをするように見たって、俺らの方では身投げなんぞする気じゃあねえんだ」
「兄さん、そんなことを言って強がりを言ってみたところで、様子でわかりますよ、様子で。ほかから見るとお前さんの様子というものがよっぽど変で、口惜しまぎれに身投げをするか、人殺しをするか、その思案に暮れているようなあんばいに見えますから、それで私は見すごしができないわけなんでございます」
「嘘を言うない」
「嘘なもんですか。第一お前さんは伊勢の国からはるばる出ておいでなすって、今晩泊るところもないから、それで死ぬ気におなんなすったのだろう」
「何だ、お前は俺らが伊勢の国から出て来たことを知ってるのかい」
「知っていますとも、伊勢の国で宇治山田の米友さんというのはお前さんだろう」
「おやおや、俺らのところから名前まで知ってやがる、俺らの方ではお前を知らねえ」
「それで兄さん、お前は盗賊の罪を被《き》て、あの尾上山《おべやま》というのから突き落されて死んだはずだが、それが生き返って、いま両国橋の上に立っているんだから、私は驚きましたよ、幽霊かと思いましたよ」
「おや、お前はそんなことまで知ってるのか」
米友は不安と怪訝《けげん》と交々《こもごも》、七兵衛の面を見返しました。
「心配しなくってもようございます、お前さんの罪のないことは、私がよく知っているのでございますからね」
「うむ、俺らには全く罪がねえんだ、盗人《ぬすっと》はほかにあるんだ」
「そうでしょうとも、お前さんは盗人なんぞをなさるような方ではない」
七兵衛の信用を得て、米友はやや安《やす》んじた形でありました。
「俺らもあれから、ずいぶん運が悪くなり通しでね、なかなか苦労をしたよ」
「そりゃお気の毒でしたねえ」
「あっちへ行ってもこっちへ行ってもばかにされるんで、やりきれねえ」
今までの突慳貪《つっけんどん》に引換えて訴えるような声で言い出したから、七兵衛もおかしくもあり、かわいそうにもなりました。
「私もお前さんの噂を聞いて、ほんとにお気の毒でたまらないから、どこかで逢ったら、いろいろお話をして上げようと思っていたところでした、今日はまあ、いいところで会いました」
七兵衛と米友とは、どっちが先ということなしに両国橋を、本所の方へ向いて渡りながら身の上話。
十五
七兵衛に焚《た》きつけられたお角は、案の如く口惜しがってしまいました。百蔵はこのごろ、さる後家さんのところへ出入りするようになって、その後家さんが近いうち甲州へ出かけるに就いて、百蔵もその跡を追って甲州へ行くから気をつけなければならないと、七兵衛はお角を嗾《け》しかけました。その上、右の後家さんというのは根岸に住んでいて、先日お前さんの前へワザと古証文を突きつけたりなんぞした女だということを聞かされると、勝気のお角は矢も楯もたまらないほどに逆上《のぼ》せ、
「あんな女にこの上ばかにされてたまるものか」
お角は小屋へ帰って、その腹癒《はらいせ》に、せっかく来合せていた米友をさんざんに罵《ののし》って、その足でまた山下の銀床へ飛んで行きました。そうして百蔵の胸倉を取って思う存分に文句を言いました。さすがのがんりき[#「がんりき」に傍点]もこれには閉口して、しきりに申しわけをしてみたけれどお角は耳にも入れないから、結局がんりき[#「がんりき」に傍点]がお角の前に謝罪《あやま》って、やっとその場を済ませたけれど、それからお角はがんりき[#「がんりき」に傍点]の家に入浸《いりびた》りで、その傍に附きっきりということになってしまいました。何か言えば刃物三昧《はものざんまい》でもしかねない勢いであったからがんりき[#「がんりき」に傍点]も全く閉口して、当分、外出もできないことになってしまいました。
七兵衛はその有様を見て、手を拍って自分の策略が当ったことを喜び、その間に手形が下りて、お絹とお松とはがんりき[#「がんりき」に傍点]を出し抜いて甲州街道への旅路に出かけました。七兵衛は自分が見え隠れにこの女連《おんなづれ》を守護して行くつもりであったけれど、幸いに甚だ都合のよい従者を一人発見しました。その従者というのはすなわち宇治山田の米友であります。お君が甲州へひとり残されたことの真相を、七兵衛を通してお角から聞いてもらったところが、女軽業の美人連から冷かされた時のように、よい旦那が出来たから甲府へ残ったわけではなく、全く火事のために行衛不明《ゆくえふめい》になったのだとわかって米友は、お君のことが心配になってはるばる甲州まで行ってみる気になりました。
跛足《びっこ》でこそあるけれども米友は、杖《つえ》をついて飛んで歩けば、あたりまえの人には負けない速力で歩くことができます。それで乗物で行く足弱の伴《とも》にはけっこう役がつとまる。それは槍を取っても取らなくても、生れついての俊敏で気が早いこと無類で、気が早くて直ぐに喧嘩を買ったり売ったりする。これは人気の悪い郡内あたりを通らすには善し悪しであるけれども、そこはよく七兵衛が意見をしておきました。
「兄さん、道中は無暗《むやみ》に人と物争いをしちゃあいけねえぜ、甲州街道の郡内というところは人気が悪いところだから、女連と見たら雲助どもが因縁をつけるだろうけれど、酒手《さかて》をドシドシくれてやりさえすりゃ、たあいなく納まるんだから、お前の一本調子で相手になっちゃあいけねえよ」
「うむ、いいとも」
「そうかと言って、まるっきり温和《おとな》しくしていると悪い奴にばかにされるから、時々威勢を見せつけてやらなくちゃあいけねえ。ことにこの街道には、がんりき[#「がんりき」に傍点]と言って一本腕で名代《なだい》の胡麻《ごま》の蠅《はえ》がいるから、なんでも一本腕の男が傍へ寄って来たら、ウント嚇《おどか》してやるがいい」
「うむ、一本腕の胡麻の蠅が来たら用心するんだな。何と言ったけな、その胡麻の蠅の名前は」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]という渾名《あだな》がついてるんだ、ちょっと色の白い小作りな綺麗な男だ、そいつが駕籠の傍へ寄って来たら用心をしなくちゃいけねえ、夜の宿屋なんぞもほかに怖いものはねえが、その一本腕だけは油断をしちゃあならねえからしっかり頼むよ」
「うむ、いいとも」
「おれは道中師だから、街道筋にどんな悪い奴がいるかということはチャンと心得ているんだが、おそらくそのがんりき[#「がんりき」に傍点]と
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