七兵衛はこの銀床を立ち出でました。
「困った野郎だ、何をしようとたかの知れたようなものだが、詰らねえことにしたくもねえ、なんとかしてあいつを追っ払ってしまうような工夫はねえものか」
七兵衛は考えながら歩きましたが、
「そうだそうだ、女から持ち上ったことは女に限る、一番あの女軽業のお角という女を焚附《たきつ》けて嫉《や》かしてやろう、そうしてがんりき[#「がんりき」に傍点]の胸倉《むなぐら》を取捉《とっつか》まえて、やいのやいのをきめさして、動きの取れねえようにしておけば、こっちも道中よけいな心配がなくっていい、こいつはいいところへ気がついた。あの女のいるところは両国の小屋ですぐわかるだろう、これから行って、罪なようだが狂言を書いてみる、いやはや、あっちでもこっちでも野呂松《のろま》人形を操《あやつ》るような真似ばっかり、おれも釣り込まれていいかげんの狂言師になったわい」
十三
宇治山田の米友はこの頃、お君の身の上を心配しています。両国の木賃宿《きちんやど》で別れてから時々便りのあるはずなのが更にありません。自分は程遠からぬ箱惣《はこそう》の家に留守番をしていることだから、毎日のように宿まで通《かよ》ってお君の便りを聞こうとするが、さっぱり何とも言ってよこしません。
ああいうわけで米友は、両国の見世物小屋を追い出されてから、両国の近辺へは立廻れないわけなのですが、こっそりと出入りをして、もしお君らしい人が通りはしないかと思ってキョロキョロ見ていましたが、一向それらしい女の子は見えないから、いつでも失望して帰ります。米友の身体《からだ》は小兵《こひょう》な上に背が低いことは申すまでもありませんが、肉附《にくづき》だとて尋常《なみ》の人よりは少し痩《や》せているくらいですから、夜なんぞは誰でもみんな子供だと思っています。米友が一人で留守番をしていると近所の子供が寄って来て、
「お前も一緒に遊ばないか」
と言いましたが、
「やあ、この人は子供じゃあねえんだ、大人だよ、おじさんだよ」
それで近所の子供らは、米友をおじさんと言うようになりました。
「おじさんは槍が上手なんだね」
と言って槍をいじくる。
「そりゃ上手さ、この間は侍の泥棒が十人も来たんだけれど、おじさんがこの槍一本で追払ったんだ、ねえおじさん」
「おじさんは背《せい》が低いねえ、俺《おい》らと同じぐらいだねえ、どうしてそんなに低いんだろう」
「そりゃお前、生れつきだから仕方がないじゃないか。背が低くったってお前、おじさんの面《かお》をごらん、皺《しわ》が寄ってるじゃないか、だから年をとってるんだよ」
「それにおじさんは跛足《びっこ》だねえ、どうして跛足になったの、馬に蹴られたんじゃないの」
子供は正直だから、寄ってたかって米友の身体《からだ》の棚卸《たなおろ》しをしてしまいます。米友もさすがに苦い顔をしていますが、子供のことだから笑っているよりほかはないのを、子供はいい気になって米友の背中へ乗っかかったり、膝を枕にしたりして、
「跛足《びっこ》だって槍は使えるんだよ。ほらこのあいだ両国へ来た印度人の黒ん坊をごらん、あの黒ん坊も跛足だろう、それでも槍を使わせると素敵《すてき》だったぜ。金ちゃん、お前あの黒ん坊を見たかい」
「見なかったよ」
「話せねえな、印度で虎を退治して来た黒ん坊なんだよ、俺《おい》らはお父さんにつれて行ってもらったんだ、ずいぶん怖《こわ》い槍の使い方をして見せたよ」
米友は、いよいよ苦い面《かお》をしていると、子供は頓着《とんちゃく》なしに、
「それがお前、途中でふいといなくなっちまったから、もう一ぺん見に行くつもりだったけれど詰らねえや。でもこのごろ、また朝鮮から象使いが来るんだとさ」
「どこへかかるんだい」
「前に印度人の槍使いが出たあの軽業の小屋さ、娘軽業というのがあったろう、あれが朝鮮まで行って帰って来たんだとさ、それで朝鮮から象使いをつれて来て、来月からあすこへかかるんだって。だから俺らはまたお父さんにつれて行ってもらうんだ」
「俺らもつれて行ってもらおうや」
子供たちのこんな話を米友が聞咎《ききとが》めました。
「子供衆」
「何だ、おじさん」
「朝鮮から象使いが来るというのは、あの、なにかい、もと女軽業や力持がいたあの見世物小屋かい」
「そうだよ、もうビラが方々へ廻っているよ」
「それで、もとあの小屋にいた軽業や力持も帰って来たのかい」
「みんな帰って来たよ、久々《ひさびさ》にてお目見え、お馴染《なじみ》の一座、なんて書いてあるよ」
「そうか」
米友は腕を組んで考え込みました。甲府へ旅興行に出かけたにしてはかなり日数がかかっていたが、ついでに処々の旅興行をして帰って来たものだろう。帰って来たとすれば、何よりも先にお君からの便りがなければならぬ。友さんいま帰ったよ、と言ってお君が真先にこの米友を尋ねなければならないのだ。つづいてムク犬も尾を振って咽喉《のど》を鳴らして跟《つ》いて来なければならないはずなのだ。それにもうビラも出来て諸方へ廻っているというのに、自分のところへ音沙汰《おとさた》がない。お君はこの米友を忘れてしまったのか、あんな仲間へ入っているうちに気象《きしょう》が変って、俺らのことなんぞはどうでもいいことにしてしまったんじゃあるまいか、どうも訝《おか》しい。米友は単純な頭をいろいろに捻《ひね》ってみたけれど結局、米友の知恵ではどうしてもその間の消息がわからないから、これは直《じか》に行って掛合ってみるよりほかはないと思案を固めました。
しかしながら米友には、あの小屋へ行けないわけがある。見世物小屋の掟《おきて》で、あんなことをしてブチ壊しをやった芸人は、見世物師の背後についている破落戸《ならずもの》が寄ってたかって手酷《てひど》い制裁を加えて追い出すのであったが、米友のは全く無邪気でやった失策《しくじり》であり、且つ槍の名人ときているから、荒っぽいことをせずに単に追放だけで済みました。それを今ノソノソとあの小屋の附近へ近寄ろうものなら、どんな目に遭《あ》うか知れない。両国広小路は米友にとって鬼門《きもん》であるけれど、今はその危険を冒しても米友はそこへ行かねばならなくなりました。
「おじさん、どこへ行くの」
「うむ、俺《おい》らは広小路まで行って来る」
と言って米友は、急に跛足《びっこ》を引きずってこの家を出かけました。
「こんにちは」
もう開場三日前、小屋の内外の装飾で忙しいところへ米友はやって来ました。
木戸番は怪訝《けげん》な面《かお》をして米友の面を見ていると、米友は、
「軽業の娘たちはみんな甲州から帰ったのかね、一人残らず帰って来たのかね」
「はい、みんな帰りましたよ」
「では君ちゃんも帰ったんだろう。君ちゃんが帰ったなら、ちょっとここまで面を出してもらいてえ」
「お前さんはどなたでございます」
「君ちゃんに会えばわかるんだ」
「…………」
「こんな人が尋ねて来たって、君ちゃんにそう言っておくれ」
木戸番は米友の面をよく見ました。
「今こっちの方は忙しいんですから手が放されません、裏から廻って楽屋の方へ行ってごらんなさいまし、楽屋でお聞きなすってみてごらんなさいまし」
「そうですか、それじゃ楽屋の方へ廻ってみるかな」
米友は久しぶりでこの小屋の内部へ入ってみました。
大勢の人は気がつかないで立働いているが、米友はなんだか気が咎《とが》めるような心持で、勝手知ったる楽屋のところまで来て、恐る恐る言葉をかけました。
「こんにちは」
楽屋では一座の美人連が出揃って、新興行にかかる小手調べをしているところでした。
「こんにちは」
米友は女軽業の美人連の稽古場《けいこば》を覗《のぞ》き込むと、
「どなた」
「おやおや、米友さんじゃないか」
「まあ、米友さんが来たよ、可愛らしい米友さんだよ」
美人連は稽古をしたりお化粧をしたりしている手を休めて、米友の方を見ました。米友は怖る怖る、
「皆さん、暫らく」
「米友さん、ほんとに暫らくだったね、どこにどうしていたの」
「あっちの方にいたんだ。皆さんはいつ帰ったんだい」
「わたしたちはこのあいだ帰ったのよ、まあお上り」
「上っちゃ悪かろう、親方はいねえのかい」
米友は楽屋の中を見廻しましたけれど、不幸にして、お君の姿は見えませんでした。土間を見たけれども、ムクの姿をさえ見ることができませんでした。
「親方は、ちょっとそこまで用たしに行ったから、もう直ぐに帰るだろう」
「あの……あの、君ちゃんはいねえのか」
「君ちゃん……」
と言って、美人連は面《かお》を見合せました。
「君ちゃんも旅から一緒に帰ったんだろう、どこにいるんだい」
米友は、美人連が見合せた面をキョロキョロと見ていました。
「君ちゃんはねえ……君ちゃんは帰らないんだよ」
「おや、君ちゃんは帰らないんだって? みんながこうして面を揃えているのに、君ちゃんだけが帰らないのかい」
「ええ、君ちゃんだけが帰らないんだよ」
「そりゃどうしたわけなんだい、君ちゃん一人を置いてけぼりにして来たのかい、そんなわけじゃあるめえ」
米友がお君の安否を気遣《きづか》う様子があんまり熱心であったから、美人連はおかしがって、つい冗談《じょうだん》を言ってやる気になりました。
「米友さん、君ちゃんは旅先で、いい旦那が出来たから、それで帰るのがいやになったのだよ」
「いい旦那が出来たって?」
「わたしたちなんぞはいずれもこんな御面相《ごめんそう》だから、誰もかま[#「かま」に傍点]ってくれる人はないけれど、君ちゃんは容貌《きりょう》よしだから、忽ち旦那が附いちまったんだよ」
「そんなはずはあるめえ、そりゃ嘘《うそ》だ」
米友は、いよいよ一心になりました。一心になればなるほどその態度が滑稽になりますから、人の悪い美人連は、そんなに悪い気分ではないけれど、ついついからかい[#「からかい」に傍点]があくどくなってゆきます。
「第一、ここに君ちゃんのいないのが何よりの証拠じゃないか。ほんとにあの人は仕合せ者だよ、甲府の御城内でお歴々のお方を擒《とりこ》にして、今は玉の輿《こし》という身分でたいした出世なのに、わたしたちなんぞは、いつまでもこんな稼業《かぎょう》をしていなけりゃならない、ほんとに君ちゃんを思うと羨《うらや》ましくてたまらない」
口から出まかせにこんなことを言いましたのを米友は、そんなことはないと思いながらツイツイ釣り込まれて、
「ナニ、君ちゃんが俺《おい》らに相談なしで、そんなことをするもんか、俺らがちゃんと附いてるんだ」
ウカウカと米友がこう言ったのが、美人連の笑いを買いました。
「ホホホホ、そうでしたねえ、君ちゃんには米友さんが附いているんでしたねえ、こんな色男を捨てて君ちゃんも罪なことをしたものさ」
彼等は辛辣《しんらつ》な軽侮《けいぶ》を米友の上に加えました。
女軽業の美人連は興に乗って米友に毒口を利きました。こんな毒口は楽屋うちで言い古されている毒口でしたけれども、単純な米友は嚇《かっ》と怒りました。
「ばかにするない、そんな了簡《りょうけん》で言ったんじゃあねえぞ」
「米友さん、怒っちゃあいけないねえ、君ちゃんに捨てられたと思って、そんなに自棄《やけ》を起しちゃいけないよ」
「馬鹿」
米友は眼をクルクルと剥《む》いて美人連を見廻しました。
「君ちゃんは俺《おい》らと約束がしてあるんだ、約束を破るのは女郎と同じことなんだ、君ちゃんは俺らと約束を破って、一人で残っているような女じゃねえんだ、それを残して来たのはお前《めえ》たちが悪いんだ」
「手が着けられないね。米友さん、お前が君ちゃんと、どんな約束をしたか知らないが、現に君ちゃんはここにいないで、江戸へ帰るより甲府がいいと言って残っているから、文句がないじゃないか」
「お前たちが残して来たんだ」
「ばかにおしでないよ、こうして座を組んで、一つ鍋の御飯をいただいて歩いていれば姉妹《きょうだい》同様じゃないか、
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