申さないとは申しません。甲府へ行く前にこの証文通りお借り申しました。甲府から帰って参りますと、佐久間町の方へお返しに上ったんですけれど、お家が壊《こわ》れておいでなすって、どこへお引越しなすったか近所で聞いてもわかりませんから、ツイそれなりになってしまったんですよ。決して返さないつもりじゃございません、お借り申したものはお借り申したもの、それをこうして不意にわたしの鼻先へ突きつけて下さるなんぞは御念が入《い》り過ぎましたね、あんまり御念が入って御親切が有難過ぎるから、わたしの方でも少々御念を入れてから返して上げることに致しましょうよ」
「ええ、いつでもようございますよ、このお預かりの方はいつでもかえして上げますが、あの娘の方は何べん取りにおいでなすっても無駄道でございますから、その方はお断わり申しておきますよ」
「おや、それはどういうわけでございましょう。なるほどこの証文は口を利きますけれど、あの娘さんはありゃ山下の床屋から、道庵先生のお手を通して当家様へお預け申した人、いくら高利貸が御商売でも、誘拐《かどわかし》までなさるんじゃございますまいね」
「気をつけて口をおききなさい、誘拐とはそりゃ何のことです」
「誘拐が悪うございましたか、人の娘を預かりながら、それを親許から受取りに来れば、預からないの返せないのと、しら[#「しら」に傍点]を切るのはそりゃ誘拐じゃありませんか」
「いくら淋しい根岸でも近所がありますから、あたりまえの声で話をして下さいよ。お前さんは何も知らずに山下の床屋から尋ねておいでなすったようだが、あの床屋というのはいったい、この娘の何に当るのですね。親許から迎えに迎えにとおっしゃるが、その親許というのはどんな人なんだか、それがお聞き申したいね」
「その親許というのは銀床の亭主の友達なんですよ、その人がいま銀床に来ているんだから、それより確かなことはございますまいよ」
「銀床の御亭主というのは、どんな人だかお前さんは御承知ですか」
「そりゃ銀さんといって、片腕がないけれど、腕がいいのであの辺で評判ですね」
「その銀さんとやらが、どうして片腕が無いんだか知っていますか」
「大きにお世話さまですね、片腕があろうとあるまいと、好い人は好い人なんですからね」
「ところが、あんまり好くない人なんですよ。なるほどお前さんには片腕のないところがいいかも知れないが、あんな物騒な人に娘盛りの子を預けてはおけません」
「何が物騒なんでしょう、人には親切で、銭金《ぜにかね》の切れっばなれはよし、男っぷりだって、まんざらじゃありませんからね。若いとき喧嘩をして、腕に怪我をしてから切り落すようになったんだから、軍人《いくさにん》の向う傷と同じで、男にとっては名聞《みょうもん》なくらいなものですよ、わたしはあの片腕が大好きなのさ」
「おやおや、首の無い殿御を抱いて寝るというお姫様もあるんだから、片腕のないところもまた乙《おつ》でしょうけれど、あの男が片腕をなくしたわけを聞いてしまったらお前さん、三年の恋も冷《さ》めるでしょう。何も知らないで、あんな男に頼まれておいでなすったお前さんがお気の毒」
「そんなことを聞きに上ったんじゃありません、あの人の片腕がどうしようと、そんなことは大きなお世話じゃありませんか」
お角は非常に腹を立てました。自分に恥をかかせようと企《たく》んでするらしいこの女の仕打ちが憎《にく》らしくてたまらなくなりました。こうなっては腕ずくでも、お松を連れて帰らねば承知ができなくなったから、
「何を言ってやがるんだい、誘拐《かどわかし》め、ぐずぐず言わずに娘をお出しよ、出さないとためにならないよ」
こう言って太返《ふてかえ》りました。近所隣りへ聞えるような大きな声で罵《ののし》りました。
「いいえ、かえすことはできません。何ですお前さん、人の家へ来て失礼な、そのなりは。さあ早く帰って下さい、お帰りなさい」
お絹も負けてはいませんでした。
「失礼は持前《もちまえ》ですからね、とてもお前さんのようにお上品な面《かお》をして、人の娘を誘拐《かどわか》すようなことはできませんよ。わたしに失礼な真似をしてもらいたくなければ娘をお出し、大きな声をされるのがいやだと思ったら、預けておいたお嬢さんを出しておしまい、ぐずぐず言ってると腕ずくだよ、わたしはお前さんに噛《かじ》りつくよ」
「勝手になさい。わたしの体に指でも差してごらん、わたしもただは置かないが、この近所には、わたしの知合いで、公方様《くぼうさま》の兵隊を指図をする重い役人もいるんだから、お前さんのためになりませんよ」
「面白いね、御家人がいたら出てもらおうじゃありませんか、公方様の兵隊を指図なさるお役人がおいでなすったら、その兵隊を繰出してもらおうじゃありませんか、筋道を立ててお嬢さんを受取りに来る人と、企《たく》みをして誘拐《かどわかし》をしようという人と、どちらが白いか黒いか、そういうお方に見てもらおうじゃありませんか」
「お前さんのような下品な人とは口を利くのもいや、勝手にひとりで喋《しゃべ》っておいで」
お絹は座を立って次の間へ行ってしまおうとする。お角は嚇《かっ》と怒りました。
「下品で悪かったね、どうせわたしなんぞは、下品で失礼で阿婆摺《あばずれ》でおたんちん[#「おたんちん」に傍点]ですから、自棄《やけ》になったら何をするか知れたものじゃありませんよ」
お絹の後ろから飛びついて引き戻そうとしました。
「何をするんです」
お絹はそれを突き返しました。
「さあ娘を返せ、お嬢さんをこれへお出しなさい」
お角は突き放されてまた武者振《むしゃぶ》りつく、それをお絹は突き返す。
「まあ、何をなさるんでございます、何卒《どうぞ》お静かに、お師匠様もお静かに、おかみさんも手荒いことをなさらずに」
次の間にいたお松は、見兼ねてそこへ仲裁に入りました。
「おお、お嬢さん、わたしは銀床から頼まれてお前さんを迎えに来たんですよ、お前さんの伯父さんがいま甲州の方から帰って、お前さんを連れて帰りたいというから、わたしが道庵さんまで迎えに行くと、こっちへ上っているというから、わざわざここまで来てみるとこの人が妙な真似をするから、わたしは腕ずくでもお前さんをお連れ申すつもりなんでございます、さあ、こんないやなところにおいでなさらずに、わたしと一緒にお帰りなさいまし」
お角は仲裁に出たお松の手を引張りました。お絹はその間へ割って入り、
「お前さん方のような悪者の仲間へ、この子を渡すことはなりません」
「おや、悪者の仲間とはよく言った」
お角はいよいよ荒《あば》れます。お絹は少しもひるみません。お松がもてあましているところへ折よく、
「まあ、まあ、まあ」
かねて様子を見ていたもののように飛び込んで来たのは七兵衛でありました。
十二
七兵衛のこの場へ飛び込んだことは、すべてにおいて都合がよくなりました。
二人の女をうまく仲裁して、話をそっくりわかるようにしてお角をなだめて帰し、そのあとでお絹と万事話し合って事情がわかり、話を纏《まと》めておいて七兵衛は山下の銀床へ帰りました。
「百、いま帰った」
「兄貴、帰ったのか、俺がいま出かけようと思っていたところだ」
「どこへ」
「根岸の後家《ごけ》さんとやらがおかしな真似をするというから、行って見ようと思っていたところなんだ」
「それなら、もう話が纏《まと》まったからよせ」
「兄貴の方は話が纏まったか知れねえが、俺の腹にはちっとばかり居ねえことがあるんだ」
「あれはあの女の癖だから、別に気にかけなさんな」
「癖にしてはあんまり性質《たち》がよくねえようだ、何かこっちに恨みがあってするような乙《おつ》な真似をしやあがる」
「ははは、恨みは大ありだ、当ってみれば因縁《いんねん》がちゃんと附いてる」
「いったい、その女というのは何者だい」
「お前がその女に悪戯《いたずら》をされるのは、されるような因縁がついているんだから仕方がねえ、ちょっと調戯《からかい》にやってみたんだから、根に持つなよ」
「そう聞いてみると、なおさら打捨《うっちゃ》っちゃおけねえ」
「出かけて行ってどうするつもりだ、その女に指でも差してもらうと俺が困ることになるんだから、打捨っておいてくれ」
「兄貴の迷惑になるようじゃあ済まねえが、なんだか様子がわからねえから、まあ一通りの話を話してみてくれ」
「根岸にいる女というのはそりゃあそれ、徳間峠《とくまとうげ》の一件物だ」
「ナニ、徳間峠の? まさかあの切髪の新造《しんぞ》じゃあるめえな」
「それだそれだ、お前が腕を一本とられた因縁物だ」
「なるほど、そいつは廻《めぐ》り合せが奇妙だ、その女なら因縁はこっちから附けてやらにゃあならねえ」
「ところが向うから因縁をつけて来たというのは百、お前が気が多いからだ、あの女軽業の親方とお前と出来て、嬉しそうに歩いているところを見せつけられたから嫉《や》けてたまらねえので、そんな悪戯《いたずら》をして腹癒《はらいせ》をしてみたんだ、早く言えば百、お前が色男すぎるから調戯《からか》われたんだ、ここは腹を立てねえで一杯|奢《おご》るところだよ」
「うむ、そう言われるとなんだか擽《くすぐ》ってえような気持もするが、浮気で言うんじゃあねえ、あの女はあんまり薄情すぎる」
「ははは」
七兵衛は笑っているが、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまだ心の底に何か残っているらしい。
「兄貴の前だが、おれは一旦ものにしかけた女を、そのままにしておくのはいやだ」
「おやおや、お前はまだそんなことを言ってるのか、男らしくもねえ、まだ未練が残っていたのかい」
「未練というわけじゃあねえが、おれもあの女ゆえにこの腕を一本なくして、生れもつかねえ片輪《かたわ》にされちまったんだ、身から出た錆《さび》だと言えばそれまでだが、どうもこのままじゃあ済まされねえ」
「済まされなけりゃあどうするつもりだ、腕一本で済んだのが見つけもので、すんでに命のねえところを助かったんだ、よけいなチョッカイを出したおつりと思えば腕一本は安いもんだと諦《あきら》めていたくせに、今になって済まされねえとはどうするつもりだ」
「兄貴、あきらめというのは見ず聞かずの上のことだ、ツイ目と鼻の先にいて、こんな悪戯をされた日にゃあ、どうもがんりき[#「がんりき」に傍点]も眼がつぶり切れねえ」
「存外、手前《てめえ》も男がケチだ、向うはちょっと調戯《からか》っただけの御挨拶で、女というやつは、ああもしてみないとバツが悪いんだ。可愛いくらいのもんじゃねえか」
「そこが兄貴と俺との性根《しょうね》が違うところなんだ、ケチな野郎ならケチな野郎でいいから、俺は俺の思うようにしてみてえ」
「それじゃなにか、執念深くどこまでもあの女を附け廻そうと言うんだな」
「そうだ、みんごと、俺はこの片腕であの女をこっちのものにして見せる、兄貴の方に何か差合《さしあ》いがあるかは知らねえが、お前も苦労人だから一番おれの男を立てさせてくれ」
「百、お前がそういう心がけならそれでいいから思うようにやってみろ、その代り、あまり出過ぎると、ちいーっと危ねえことがあるから、そう思え」
「合点《がってん》だ、どのみち危ねえ橋は渡りつけてるんだから、地道《じみち》を歩くのがばかばかしいくらいなもんだ」
「うむそうか。それじゃあ、あの女は近いうちに娘をつれて甲州街道を上って甲府へ行くはずだから、手前も一緒に行ってみたらよかろう、その途中には手前が望む危ねえ橋がいくつもあるんだから、渡れるものなら渡ってみねえ」
「兄貴、お前もついて行くんだろう」
「俺が頼んで行ってもらうような仕事だから、道中は眼がはなされねえ」
「そうなると兄貴と俺と楯《たて》を突くようなもんだな、兄貴を向うに廻して、俺が色悪《いろあく》を買って出るようなものだ」
「まあ、いいようにしてみろ」
七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]とはこんな問答をして、少しばかりおたがいに気まずい色を見せて、
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