ても、つい、いろいろの目に遭ったものでございますから」
「こっちへ来てそんなに御奉公するまでに、なぜわたしを訪ねてくれなかったの」
「まだこっちへ参りまして僅かでございますから、ツイ御無沙汰を」
お松は畳みかけて叱られるのを苦しい受太刀《うけだち》をしていたが、お絹はあんまり深く追及しないで、
「過ぎ去ったことは仕方がないから、これから心を入れかえて下さい。今お前をつれて来た人なんぞも、どうやら性質《たち》のよい人ではない様子、引受けたのが当家の道庵さんや、わたしたちだからよかったけれど、一つ間違えば、お前の身は台なし。ほんとうに危ないところ」
お絹は自分の子を危ないところから助け出したような言葉で言っていますが、これはまるきり作《つく》り言《ごと》ではなく、多少の親身《しんみ》が籠っているようです。
十一
こうして道庵の手からお松は再びお絹の許へうつることになりました。お絹は以前のことを一通り叱言《こごと》を言ってみたりしたけれど、お松の詫び方があまり神妙でしたからお絹も和《やわら》いで、
「お前がそういう気になってくれれば、わたしだって昔のことなんぞを繰返すのではありません」
「お師匠様、それについては一つのお願いがございますが、どうかお聞入れなすっていただきとうございます」
「改まってお願いというのは、どんなことでしょう、言ってごらん」
「お暇乞《いとまご》いを致さずにお邸を出ましたのは、わたしの重い罪でございますから、何卒もう一ぺん、神尾の殿様へ御奉公にお出し下さいまし、そうして一生懸命に御奉公を仕直して、お師匠様の御恩報じを致したいと存じまする」
「なるほど」
お絹は本気になってなるほどと言いました。それはお松の心があんまり正直だから、多少動かされたのであります。
「けれどもね」
ややしばらく感心していたお絹は、けれどもという言葉を挿《はさ》んでこう言いました。
「お前はまだ知るまいが、神尾様も昔の神尾様ではないのだよ、今はお江戸にはおいでにならないのですよ」
「あの、甲府の方へお役替えになったそうでございますね」
「まあ、よく知っている……」
お絹の眼には驚きの色がありました。
「甲府のような山の中へおいでになりましては、何かにつけて御不自由でございましょうから、できますならば、お傍《そば》にいて相当の御用を勤めてお上げ申したいと存じまする」
前にはいやがって逃げ出した神尾の殿様のところへ、今度は進んで行こうと言い出したのは、それだけ苦労をして来たききめだろうと思いました。
「ほんとにお前は感心なところへ気がつきました。それは甲府詰といえばお旗本の運の尽きで、ああして我儘《わがまま》をしておいでなすっただけに、今はどんなに苦労をしておいでなさるかと、それを思えば、おいとしくてなりませぬ。お前がそう言ってくれるのが、わたしにとっては親身《しんみ》のように嬉しい。御威勢のよい時は、ずいぶん忠義を尽す人も多かったのに、今は江戸からお手紙を差上げる人もない御様子、それをお前が、自分から御奉公に上ろうと言ってくれる心が嬉しい」
お絹は喜びました。お松はなにも元の殿様に忠義を尽す心から言ったのではなかったけれど、お絹はお松の初心《うぶ》な気性を、ただ律義一遍《りちぎいっぺん》にのみ受取ったから親身に嬉しく思ったのでした。そういうふうにすべて善意に受取られることは、お松の性質の一徳でありましたけれど、お絹もまたこのごろでは、物に感じ易くなってしまったのです。さほどでもないことを嫉《ねた》ましく思ったり、その仕返しの種と思って、はからずお松と逢ってみれば、その言うことのしおらしさにいちいち感心してしまうようになったのは、ついこのごろのことでありました。
「わたしはもうこれまでの体だから、これからお前を養女にして、町人でいいから堅そうな養子を見立てて、小店《こだな》の一軒も出すようにして、お前の世話になって畳の上で死ねるようになりたい」
なんぞと、心細いことをも言い出すのでありました。今夜もまた二人は床を並べて寝《しん》に就きましたが、
「お師匠様、まだお手形は出ませんのでございましょうか」
お絹は思い出したように、
「ああ、もう下《さが》りそうなものですよ。けれどもお前も知っての通り、女の手形というものはなかなか手続が面倒なのだから、それでこんなに延びるのでしょう。もしあんまり後《おく》れるようならば、わたしがまた頼み込んでみるところがあるから、もう二三日待ってごらんなさい」
「もし、お手形が下りませんでしたらば、わたしはお手形なしで、裏道を通っても、早く甲府へ参りたいと存じます」
「わたしの方はそうはゆかないから、まあもう少し待っておいで」
お絹とお松との手形というのは、疑いもなく、甲府へ行こうとするその道筋のお関所へ見せる女手形《おんなてがた》のことでありましょう。それを願い出ておいて、まだ下《さが》らないから二人でこんな噂をしているのです。
その翌朝になると女中が、
「旦那様、お客様でございます、山下の床屋からと申しました」
と聞いて、お絹はそれと気がつきました。
「まあ、お待ち、どんな人が来たか見てやりましょう」
お絹はワザワザ自身に立って玄関の襖《ふすま》の隙から表を見ると、先日の夕方、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と睦《むつ》まじそうに山下の雁鍋《がんなべ》から出て来たお角でありましたから、また居間へ帰って、わざととりすまして、
「何の御用ですか聞いてごらん、お門違《かどちが》いではございませんかと尋ねてごらん」
それで女中が出て行きましたが、暫くたってまた引返し、
「旦那様へ、このお手紙をお目にかけさえすればわかるからと申しました、お客様は女の方でございます」
一封の手紙を取次いだからお絹はそれを取って見ると、長者町の道庵先生からであります。
封を切って読んでみると、その文面は、かねてお預け申してあった娘を、この手紙を持った人が迎えに行くから渡してやってくれ、お礼には後で拙者が出るからということでありました。まさしく道庵先生の筆に違いないけれど、お絹はわざとらしく解《げ》せないような顔をして、クルクルと巻いてしまい、それを女中に突き返すようにして、
「どうも、お手紙の筋は手前共の主人にはよくわかり兼ねますから、お返事の致し様がございませんとそう言って、この手紙を返してやってごらん」
「畏《かしこ》まりました」
女中はまた出て行きました。なんと言って来るか知らんとお絹は、煙草の煙を吹いておりました。
「旦那様」
またまた取次の女中がやって来ました。
「帰ったかい」
「いいえ、お客様は、そんなはずがないと申しておりまして、とにかく御主人様にお目にかかった上で、お門違《かどちが》いならお門違いのようにお詫びを致しますからと言って動きませんのでございます」
「そうだろうと思った。それではお通し申して置き。それから、用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》の二番目のをそっくり引き出してここへ持って来て下さい」
女中はまず、命ぜられた通りに用箪笥の抽斗をそっくり引抜いて、お絹の前へ持って来てからまた取次に出かけました。
お絹はその抽斗の中を選《え》り分《わ》けて一枚の借用証文を引き出しました。この証文は、お角が甲府へ旅興行に行く前に、仕込金として、忠作から借りて行った金の証文であります。
「お松や」
お絹は証文の皺《しわ》を伸ばしながらお松を呼びました。
「はい」
「わたしが今お客様と話をしていますから、もしお茶をと言った時分に、お前はお茶を入れて持って来て下さい。お客様は、お前の面《かお》を見ると何か言い出すかも知れないが、お前は心配しないで、お茶を出したらば直ぐに奥へ入っておしまい」
こう言ってお絹はとりすまして客間へ立って行きました。
「お初《はつ》にお目にかかりまして」
お絹とお角と両女《ふたり》の挨拶《あいさつ》があってから、お角が改めて、
「さきほどお目にかけましたお手紙、どうやらお門違いとも思われませんのに、御様子がおわかりにならないそうでございましたから、押してお目通りをお願い申しました」
「道庵さんは始終《しょっちゅう》懇意《こんい》に致しておりますけれど、あの娘さんがどうしたことやら、文面が何のことやら、のみこめませんものですから」
「あの道庵先生から、当家様へ二三日お預かりを願いました娘さんのことでございますが、その親許《おやもと》が今日見えまして、連れて帰りたいということでございますから、さっそく道庵先生へお話を致しますると、先生は当家様へお頼み申してあるとおっしゃって、おれが直《じき》に連れて来てやると御自身でお出かけになるところを、なにしろあの通り御酒《ごしゅ》を召していらしって、お足元がお危のうございますから、それには及びませぬ、お手紙でもいただきますれば、私共の方からお迎えに上りますからと申しますと先生が、よしよしとおっしゃって書いて下すったのがあのお手紙でございます」
「それは変なことでございますね、私共では、先生から娘さんとやらを預かったような覚えは一向にありませんのですが」
「おやおや、それでは道庵先生が何か勘違いをなすったのではございますまいか」
「あの先生のことだから、何かいたずらをしてお前さんたちをかついだのかも知れません」
「ほかのことと違いまして人一人のことでございますから、そんな罪ないたずら[#「いたずら」に傍点]をなさる先生でもございますまいし」
「なにしろ、わたくしどもでは、道庵先生から小猫一匹でもお預かり申した覚えはございませんから」
「それは困ったことになりました、あの先生に限って、酔っぱらっておいでになっても、信用の置けることには置ける先生だとばかり思って安心して上りましたのに」
「どうもお気の毒に存じます、もう一度先生の方を確めてごらんなさいませ」
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、幾重《いくえ》にもお許し下さいまし」
お角は当惑してしまったから、お絹に向って自分のそそうを詫びました。
「まあよろしうございます、お茶を一つ召上れ」
お絹がお茶を一つと言った時に、何も知らないお松はお茶を立ててこの場へ持って出ました。お角は今お詫びをして帰ろうとするところへお松が入って来たものだから、思わずその面《かお》をじっと見て、
「おや、このお娘さんは……」
お角が驚いて膝を立て直すのを見て、お絹は莞爾《にっこり》と笑いました。
お松は何のことだかわかりませんで、ただこの女のお客が自分を見て仰々《ぎょうぎょう》しい表情をしたことを、少しくおかしく思いながら、
「おいであそばせ」
一礼をして出て行こうとする時、お角の言葉つきがガラリと変って、
「奥様、おからかい[#「おからかい」に傍点]なすってはいけませんよ、女のことでございますから怯《おび》えますよ」
膝を立て直したお角の挙動を、ますます怪しいことに思いながらお松はお茶を出して、次の間へ立去ってしまいました。それを流し目でお角は見送りながら、
「奥様、お前様は、女の子はおろか、猫一匹も道庵先生からお預かり申した覚えはないとおっしゃいましたね。そんなことだろうと思いました。危ないこと、子供の使いで追い返されて、こっちからは赤い舌を出され、向うでは笑い物にされるところでしたよ」
お角は坐り込んで、ことわりもなしにお絹の煙管《きせる》を借りて煙草を一ぷくつけた時に、お絹はさいぜんの証文を取り出しました。
「お前さんには、あの女の子より先にお預かり申した品があるから、それをお返し申してからの話にしようと思いました」
お絹はその証文をお角の前に置くと、お角は不審な面《かお》をして煙管を投げ出し、証文を取り上げて披《ひら》いて見ました。
「おやおや、こんな品物が奥様の方に廻っていようとは存じませんでした。エエよろしうございますとも、お借り申したものは決してお借り
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