いう奴ぐらい悪い奴はねえ、またあのぐらいスバシッコイ奴もねえ、わけて女連と見た日には執念深く附いて廻って仕事をする奴なんだから、そのつもりでしっかり頼むよ」
 七兵衛は米友に向って、なおくわしくがんりき[#「がんりき」に傍点]の人相や悪事の手並《てなみ》を語って、それに多くの敵意と注意を吹き込んでおきました。
 お絹とお松とには正式の手形、米友はその従者として正当に関所を越えることのできるように手続が出来ました。箱惣《はこそう》の家にいる時分に、ひまにまかせて米友は自分で工夫して、自分が名をつけた杖槍《つえやり》。槍の穂だけを取りはずして込《こみ》のところを摺《す》り上げ、それをいつでも柄《え》の中へ箝《は》め込むことができるようにして、穂を懐中に入れておき、柄は杖にしてついて歩き、いざという場合には、それを仕込んで咄嗟《とっさ》の間に槍にしてしまうという武器が出来たから、米友はそれを持って、頭には笠をかぶり首根ッ子へ風呂敷包を背負って、お絹とお松との駕籠のすぐあとへついて出かけました。米友のその風采《ふうさい》はお絹をもお松をも笑わせました。

 それより三日目に両国の女軽業の見世物が開《あ》けて、銀床に附ききりであったお角も、どうしても小屋へ帰らなければならなくなりました。その隙《すき》を見てがんりき[#「がんりき」に傍点]が根岸のお絹の住居《すまい》へ駈けつけて見ると戸が閉っていました。
「失策《しま》った」
 急いで取って返して旅の仕度をしているところへ、折悪《おりあ》しくお角が帰って来ました。
「お前さん、何をしているの」
「ナニ、その、ちっとばかり」
「足ごしらえをしてどこかへおいでなさるの」
「ナニ、近所まで」
「近所のどこへおいでなさるの」
「ナニ、そんなに遠いところではない」
「そんなに遠いところでなければ、足ごしらえなどをしなくてもいいじゃないか」
「でも、久しく旅をしないから」
「おや、久しく旅をしないから、どこかへ旅をしてみたくなったというんですか。知ってますよ、その旅先はちゃあんと呑込んでいますからね」
「ナニ、少しばかり足慣らしをやってみるんだ」
「出かけるなら出かけてごらんなさい、わたしという者をさしおいて行けるものだか行けないものだか、さあ、出るなら出てごらんなさい」
 お角はそこにあった荷物と、がんりき[#「がんりき」に傍点]が結びかけた脚絆《きゃはん》を取って抛《ほう》ります。
「何をするんだ、やい、ふざけたことをするない」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその脚絆を取って、また片手で足へ巻きつけようとすると、
「いけませんよ、わたしの見る前でそんなものを足へ巻きつけると罰が当りますよ」
「やい、何、何をするんだ」
「何をするんだもなにもありゃしない、わたしがこの間から見張っているのは何のためだと思ってるの、こんなことがあるだろうと思うから、それで忙がしい小屋の方をさしおいて、こっちへ来ているんじゃないか。それにちょっとの隙があれば、もうこの始末だから呆《あき》れ返っちまうじゃないか。あれ、まだそんなものを足へ巻きつけて、片一方手《かたっぽて》で捻《ひね》くり廻している無器用なザマと言ったら。ほんとに突き倒してやるよ」
「な、なにをするんだ」
「突き倒すよ、片一方手《かたっぽて》じゃ起きられないだろう、独り立ちで起きられもしないくせに、よくわたしを踏みつけにしたね」
「お前は何か勘違いをしているようだ、おれは今日、組合の方の寄合で千住まで出かけなくちゃならねえのだ、それで遊山《ゆさん》かたがた、久しぶりで草鞋《わらじ》を穿《は》いてみようと言うんだ、なにもお前に疑ぐられるような筋はありゃしねえ」
「冗談をお言いでないよ、火事場へ行くんじゃあるまいし、千住まで行くに草鞋を穿いて行くやつがあるものかね、組合の寄合に足ごしらえをして行くなんて、そんなばかばかしいことがあるものかね、千住がよっぽど遠くってお気の毒さま」
「どうも手が着けられねえ、お前がなんと言おうとも友達が待っているんだ、約束がしてあるんだからやめるわけにはいかねえ」
「おや、友達がよかったねえ。そりゃそうでしょうとも、いいお友達がおありなさるんだから、一刻も早く行ってお上げなさる方がいいでしょう。向う様もさぞ待っておいでなさるでしょうけれども、わたしというものがあってみれば、そうも参りませんでお気の毒さま、ほんとにお気の毒さま」
と言ってお角は、口惜しがりながらがんりき[#「がんりき」に傍点]を横の方から突き倒す。
「この阿魔《あま》、あんまり図に乗ると承知しねえぞ」
 突き倒されたがんりき[#「がんりき」に傍点]は起き上って眼の色を変えると、
「さあ、わたしに恥を掻《か》かせたあの後家さんの尻を追って行きたいんだろう、どこへでもおいで、グルになってわたしを出し抜こうとしたって、わたしの眼の黒いうちは……」
 お角はまた口惜しがって武者振りつきました。



底本:「大菩薩峠3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
   1996(平成8)年3月1日第3刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては「日本国民文学全集・別巻1 大菩薩峠 第1巻」河出書房、1956(昭和31)年3月15日初版発行と、「中里介山全集 第2巻」筑摩書房、1970(昭和45)年9月19日発行を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年10月4日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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