にしてしまったんだ」
「長者町の道庵さん?」
こう言って男女が山下の銀床《ぎんどこ》という床屋へ入るのまで、お絹はちゃんと見届けてしまいました。
根岸の住居《すまい》へ帰ってからお絹は、異様の嫉《ねた》ましさで悩まされました。惚れてもいない男だが、ああなってみると、なんだか仕返しをしてやらなければ納まらなくなりました。
と言って、自分が男をこしらえて見せつけてやるほどのことではない。なんとかして、いったん自分の方に向いていた男の心を、もう一ぺん向き直させなければ女の面目が立たないように思いました。一緒に歩いていた女は、ありゃ女房だろうか妾だろうかと、よけいな詮索《せんさく》までしてみたくなりました。いったいあの男が、徳間《とくま》の山の中で抛《ほう》り放しにして置かれてあったのを助かって出て来たのが不思議、誰が助けて来たのだろう、ことによったら山の中へあの女が通りかかって介抱した、それからの腐れ縁じゃないか知らなどとも考えてみました。それはそれにしてもあの女……
「ああ、そうだ」
とうとう思い当ってお絹は小膝《こひざ》を丁と打ちました。あの女はたしか忠作のところへ金を借りに来た
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