ありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。
「親方、これはどうしたというものだ」
道庵先生はぬからぬ面《かお》。
九
「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
片腕のない髪結床《かみゆいどこ》の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面《かお》をして聞いていましたが、
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って苟且《かりそめ》にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つ
前へ
次へ
全135ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング