》の金子六左衛門」
 大きいのが答えると、低い方のが、
「拙者は堤作右衛門」
 上の山の金子六左衛門は六左衛門で通る人でありました。六左衛門というよりも、その一名与三郎の方が通りがよかったこともあります。さきに新徴組が清川八郎を覘《ねら》う時、しばしばその金子の家で会合したことがあります。金子は新徴組の連中と交わりがよかったばかりでなく、そのころ聞えたる各藩士及び志士とはたいてい往来していました。その主張するところは幕府を佐《たす》けて尊王の志を成さんとするのであります。朝廷と幕府との間の調和をはかるがためには、非常に働いた人でありました。藩内では家老であり、その時代には一種の志士として畏敬《いけい》されていたのであったから、荘内藩の巡邏隊はそれを聞いて、やや意を安んずるところあって、
「これはこれは、上の山の金子殿でござったか、それとは知らず失礼を致しました。我々は白金屯所の荘内藩巡邏隊、拙者は伍長の斎藤角助と申す者」
と名乗りました。
 そこで斎藤角助は隊士に、槍と鉄砲を引かせ、
「この邸内が物騒がしいようでござるが……」
「いかにも。ただいま怪しい奴が忍び込んで、女を一人奪って逃
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