高いのが急に紙と筆を下へ投げ捨てるように差置いて、
「怪しい奴」
手裏剣《しゅりけん》を抜いて発矢《はっし》と投げる。投げた方角は薩州邸の馬場から此邸《こちら》の隔ての塀あたり。低い方の武士は下に伏せてあった龕燈《がんどう》を手早く持ち直してその方角に突きつけると、池の上を飛ぶように汀《みぎわ》を走って女中部屋の方へ行く怪しの者。
二人の武士は高いところにいたから、怪しい者の影を龕燈の光に照しては見たけれど、大きな声を揚げて屋敷の中を騒がすべく遠慮するところがあったものらしい。それで、
「怪しい奴」
「取逃がしたか」
と火の見櫓の上で面を見合せて、空しく下の闇を立って見ていると、池のほとりで、
「何者だ!」
「呀《あっ》!」
ざんぶと水の中へ落ち込んだような物の音。
「出合え、出合え、いま女中部屋へ曲者《くせもの》が入った、早く出合え」
ちょうどこの時、邸外を通り合せたのが白金《しろがね》に屯所《とんしょ》を置く荘内藩《しょうないはん》の巡邏隊《じゅんらたい》でした。短い槍と小銃を携《たずさ》えた四人の隊士が一人の伍長に率いられて、三田通りを巡邏してこの邸の外まで来た時に、邸内
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