あっただけでした。七兵衛は二度ばかり訪ねてくれたけれども、いつも風のように来て風のように帰ってしまう。
 その度毎に手紙を書いて置いて、それを兵馬の手許《てもと》に届けてもらうことをお松は何よりの楽しみにしていました。近いうちまた七兵衛が来るはず、お松はこのごろ、部屋にさがると毎夜のように手紙を書くことばかり。今もいろいろと思い悩まされた揚句《あげく》が、その思いだけを紙にうつすことによって、その憂《うさ》を晴らそうとしました。
 お松は自分の今の生活が至極《しごく》平穏無事であること、御殿でも皆の人に可愛がられて昔のような心配は更にないこと、朝夕|朋輩衆《ほうばいしゅう》と笑いながら働いていることなどを細々《こまごま》と書きました。自分の身はそんなに無事幸福であるけれども、江戸市中は日に増し物騒になって行って、兇器《きょうき》を抜いた浪人者が横行したり、貧窮組が出来たり、この末世はどうなって行くことかと市民が心配していること、それゆえ滅多《めった》に外出はできないこと、附近に薩州を初め内藤家、久留米《くるめ》藩などの大きな屋敷があって、ことに隣りの薩州家などは浪人者がたくさんに出入り
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