を充分に取締るの力さえなかったものです。
四
徳川幕府の影が薄くなって、そのお膝元《ひざもと》でさえこの始末。
貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と覚《おぼ》しき強盗が蔭へ廻って悪事を働き、なお火事場泥棒式の悪漢が出没するけれども、それを取締る捕方《とりかた》は出て来るという評判だけで、ちっとも出て来ません。
人形町の唐物屋《とうぶつや》を貧窮組が叩き壊した時は、朝の十時頃から始めて家から土蔵まで粉のように叩き壊してしまいました。いくら多勢の力だからと言って、これは人間業とは思われませんでした。表の店の鉄の棒が、飴を捻《ねじ》るように捻切ってありました。それを捻切ったのは十五六の子供であったということ、それは天狗の子に相違ないということ、天狗の子供が先に立って、大勢の指図をして歩くのだというようなことが言い触らされました。
「天誅《てんちゅう》」の文字が江戸の市中にも流行《はや》り出して来て、市民を戦慄《せんりつ》させたのはそれから幾らもたたない時でありました。この「天誅」の文字は大和の「天誅組」から筋を引いたものかどうかわからないが、武士と武士との
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