は、せっかくの生娘《きむすめ》が台無しだ」
「わたしはまた、お前さんが預かって食物《くいもの》にしやしないかと、それが心配だ」
「預かり物を食う奴があるものか」
「どうだかわかりゃしない、猫に鰹節《かつぶし》を預けたようなものだから」
「第一、おれに食われるような娘じゃねえ、お邸奉公を勤めていた娘で、堅いことこの上なしだ、友達の義理で退引《のっぴき》ならず預かってはみたものの、おれも実は心配なのだ」
「預けた方も心配でしょう」
「心配というのはそんなことじゃねえが、いつまでも俺のところへ置けねえわけがあるのだから、それで今日、よそへ預け換える約束をしてしまったのだ」
「どこへ預けようと言うの」
「どこでもいいじゃねえか」
「それを言わないと放さない」
 人目の薄いのをいいことにして、二人は肩と肩とを突き合せて、こんなことを話しながら行くのを、お絹はみんな聞いてしまって、この男も女も憎らしくなりました。よし、どこへ行くか、行く先を突きとめてやろうという気になりました。
「詰《つま》らなく嫉《や》かれるのも嫌だから言ってしまおう、長者町の道庵という剽軽《ひょうきん》なお医者さんへ預けることにしてしまったんだ」
「長者町の道庵さん?」
 こう言って男女が山下の銀床《ぎんどこ》という床屋へ入るのまで、お絹はちゃんと見届けてしまいました。
 根岸の住居《すまい》へ帰ってからお絹は、異様の嫉《ねた》ましさで悩まされました。惚れてもいない男だが、ああなってみると、なんだか仕返しをしてやらなければ納まらなくなりました。
 と言って、自分が男をこしらえて見せつけてやるほどのことではない。なんとかして、いったん自分の方に向いていた男の心を、もう一ぺん向き直させなければ女の面目が立たないように思いました。一緒に歩いていた女は、ありゃ女房だろうか妾だろうかと、よけいな詮索《せんさく》までしてみたくなりました。いったいあの男が、徳間《とくま》の山の中で抛《ほう》り放しにして置かれてあったのを助かって出て来たのが不思議、誰が助けて来たのだろう、ことによったら山の中へあの女が通りかかって介抱した、それからの腐れ縁じゃないか知らなどとも考えてみました。それはそれにしてもあの女……
「ああ、そうだ」
 とうとう思い当ってお絹は小膝《こひざ》を丁と打ちました。あの女はたしか忠作のところへ金を借りに来たことのある女である。そうだそうだ、甲州へ旅興行に出る仕込みのためといって、五十両の融通を人を中に立てて借りて行ったのはあの女に違いない。そんならばことによると、自分が持って来た品物の中に、あの書付が残っているかも知れぬ。お絹は葛籠《つづら》をあけて証文箱を取り出しました。
 忠作と別れる前から、お絹は末の見込みのないことを知って、自分の物は廻しておきました。大切の証文も幾通りか逸早《いちはや》く取纏《とりまと》めて持って出ました。
「有った有った、これに違いない」
と皺《しわ》をのばした一通の証文は、一金五十両也と書いて、女軽業太夫元かくという名前にしてあったから、それであの女が軽業師の興行人であり、その名をかく[#「かく」に傍点]ということまでお絹は知ることができました。こうなってみると、お絹はそれやこれやを種に、二人をいじめつけてやらなければ納まりません。
 その晩は寝ながらも、この仕組みのことばかり考えていました。
 先刻、耳に入れた話、何か預かり物の一件、生娘《きむすめ》だとかお邸奉公だとか言っていたが、あれは何、それを種に使えまいか。そうして店へ入る時に言ったのは、長者町の道庵という剽軽《ひょうきん》な医者へ預けることにしたという言葉。
「よしよし、道庵が入るならば芝居が栄《は》える」
 その翌日、お絹は十二分の好奇心を以て長者町の道庵先生を訪れました。
「先生、今日伺ったのはほかのことではございませんが、先生の身の上にありそうもない噂《うわさ》を聞きましたから、それで念のためにお聞き申しに上りました」
「ははあ、モウあれを聞かれてしまったか、それはそれは」
と言って、道庵はきまりの悪いような面《かお》をします。
「先生にもお似合いなさらぬことで……」
と、お絹はなんだか意味のありそうに言うと、道庵は恐縮して、
「ツイどうも、あんなことになってしまって甚だ申しわけがない、わしも面白半分で出かけて行って見ると、ワイワイ騒いでお粥《かゆ》を食っている様子があんまりいいもんだから、ツイ大八車の上へ乗っかってよけいなことを喋《しゃべ》ってしまうと、みんながまた馬鹿に嬉しがって、やんややんやと讃《ほ》めるから少しばかり調子に乗ってしまってるうちに、騒ぎがだんだん大きくなるので、こいつはたまらねえと、逃げ出すのも面倒だから車の上へグウグウ寝込んでしまったようなわけで。
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