それをどう間違えたか道庵が煽《おだ》てたのだ、貧窮組を持ち上げたのは道庵の仕業《しわざ》だ、それでお前の家を荒したのも道庵が指図をしたんだなんて、よけいなことを言い触らす奴があったものだから、危なくお上の手にかかってこの腕が後ろへ廻るところを、それでも永年、道庵で売り込んでいるだけに、役人の方で取り上げずに、道庵か、道庵ならば道庵でよろしい、テナことになって無罪放免で済んだが、年甲斐もなくばかなことをしたものだよ、全く以て申しわけがない」
「先生、そんなことではありません、わたしの聞いた噂というのは別なことですよ」
「はて、そのほかには、別に人に聞かれて後暗《うしろぐれ》えようなことをした覚えはねえのだが」
「先生が奥様をお迎え申すようになったと聞いて、お祝いに参りました」
「おやおや、わしが奥様を迎えることになったって? そりゃ初耳だ。そうしてそりゃ、どこから来るんだい」
「先生、恍《とぼ》けちゃいけません、それだからワザワザお聞き申しに来たのですよ」
「そりゃ、おれの方からもお聞き申したいところだ、ほかのことと違ってこんなめでたいことはない、どこから、どんなのが来るんだか早く聞かせてもらいたい」
「先生が言わなければ、わたしの方で言ってみましょうか」
「ぜひ、そういうことにしてもらいたい、同じ値ならば若くって綺麗《きれい》な方にしてもらいたいが、こう年をとって飲んだくれの俺だから、とてもそんな贅沢《ぜいたく》なことは言えねえ、万事お前さんの方に任せる」
「ところが、若くって綺麗なのだから不思議ですね、その上にお邸奉公までつとめて、遊芸の嗜《たしな》みもあれば礼儀作法も心得ているというのだから、どうしたってこれは先生に奢《おご》らせなければなりません」
「奢る! そうなれば道庵もこうして踏み倒されてばかりはいねえ。そうしてなにかい、親許《おやもと》はいったいどこで、いつ来てくれるんだろう」
「親許は上野の山下で、もう結納《ゆいのう》のとりかわせも済んで、近々のうちにお輿入《こしい》れがあるそうじゃありませんか」
「親許は上野の山下だって? そうしてそれは武家か町人か、ただしまた慈姑仲間《くわいなかま》が親許か、その辺も確かめておきたい」
「山下の銀床という床屋が親許で、近いうちに道庵先生のお邸へ乗組むということを、人の噂でチラリと聞きました」
「ハハア、なるほど」
 それと聞いて道庵先生が初めて気がつきました。この女どこから聞き出して来たか、もうあの娘のことを知っている、そうしてワザとこんなふうに綾《あや》をかけて持ち出したのだなと思いました。
 それと共に道庵がフト考えついたのは、この女もずいぶん腑《ふ》に落ちないところはあるけれども、立入って人の世話をしてみたがったり、ぞんがい人を調戯《からか》ってみたりするところに、いくらか道庵と共通のところがあって心安くしているから、女は女同士で、いっそ、この女に頼んだらどうだろうかと、道庵は道庵なりに見当をつけた事件がありました。
「ははあ、あの娘のことか。どこから聞いて来たか知らねえが、お前さんにそう言われると、ははあなるほどというほかはないのだ。実は俺もその用談を持ちかけられて始末に困ったようなわけだが、いかがでございましょう、お前さんの方でなんとかお考えがございましょうか」
 道庵はこう言ってお絹に相談を持ちかけてみると、お絹は二つ返事でその娘を預かろうと言い出しました。
 道庵はそれでホッと息をついて、お絹を信用して百蔵から頼まれた娘をそっくりその方へ廻すことにしてしまいました。
 娘を預けようとする道庵も無論、その娘がお松であるとは知らず、それを預かろうとするお絹ももとより、それはいったん自分の手塩にかけたお松であろうとは思いも及ばず、道庵は頼まれてみたものの小面倒であるから、そのままお絹に引渡そうとし、お絹はただ、がんりき[#「がんりき」に傍点]とお角の間に何か仕返しをしてやろうという、いたずら心で進んでそれを引取ろうと言い出したものです。
 こう話が纏《まと》まって、お絹が道庵宅を辞して出ようとする時に、玄関で、
「御免下さいまし」
 薬籠持《やくろうもち》の国公がその応接に出てみると、
「山下の銀床から参りました……」
 その声は聞覚えのある声、すなわちがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の声でした。
 道庵は自身で玄関へ立ち出でて見ると、そこに駕籠を釣らせて来たのは、銀床の亭主、まごう方《かた》なきもとのがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵で、
「これは先生、かねてお願い申したのをただいま連れて参りました、なにぶんよろしく」
 次の間で隙見《すきみ》をしていたお絹が、
「おや!」
と言って驚いたのは、手を取って駕籠から助け出したそれは、自分が手塩にかけたお松の
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