取り手だが、何しろ道庵先生に会ってはその敵でないと、つまり自分に心得があるだけに、彼を知り己《おの》れを知るんでげすな、だから指を取られるとすぐに、お前は話せると言って莞爾《にっこり》と笑って、尋常に引上げたところがあれで味のあるところで、道庵さんが敵をとっちめながら、ペコペコお辞儀をして先を立てておく呼吸なんぞも、なかなか見上げたものでございますな、エライものでございます」
 輿論《よろん》は往々、土偶人形《でくにんぎょう》をも偉大なものに担《かつ》ぎ上げてしまいます。道庵先生もここで暫く輿論の勝利者となりました。
 そのあとで床屋の親方は、道庵先生を座敷へ招いて一口差上げ、
「先生、おかげさまで助かりました。いったいどうしたわけでござります」
「あははは」
 道庵先生は笑って、
「あれは二両取りという新手だ、あれで首尾よくとっちめてしまった」
「いや町内では、もう大変な評判で、さっきから入り代り立ち代りお礼にやって来ますが、なんでも先生が柔術の達人で、茶袋を手玉に取って投げたと言って騒いでいますが、その二両取りというのは、やはり柔術の手なんでございますかね」
「あはははは」
 道庵はいちだんと大口をあけて笑い、
「柔術《やわら》の手だとも、俺が新発明の柔術の新手だわい、尤《もっと》も古い型を少しは取り入れてあるんだがな、それを場合に当って器用に施《ほどこ》し用いたというのが拙者の働きさ」
「その型をひとつ、伝授を受けたいものでございますね」
「あはははは、いいとも、二両取りの型をひとつ話してやろう。まず最初に茶袋が、わしの胸倉を取った時、その手先を逆に取り返したわたしの働きを見たかい。あの時それ、そっと一両握らしてやった」
「なるほど」
「そうして利目《ききめ》のところを見ていると、グンニャリと来たから、こいつは手答えがあるわいと、それを下へ持って行って西洋流の握手をやる時にまた一両、それで都合《つごう》二両取り、わしの方から言えば二両取られだ、それでスッカリ柔術が利いてしまった。二両取りの新手というのは、つまりそれだけのものさ」
「なるほど、そんなことだろうと思って、私もあの時にお手の中を見ていました。私の方でその手を先に用いさえすれば何のことはなかったのでございますが、あの茶袋の言い分があんまり癪《しゃく》にさわるものでございますからツイ持前が出て、先生に落ちを取られてしまいました、申しわけのないことでございます」
「それはそうと親方、お前さんは何かこの道庵に内緒《ないしょ》の頼みがあると言いなすったから、それで俺《わし》はやって来たのだが、内密《ないしょ》の頼みというのはいったい何だね」
「そりゃ先生、ほんとうに内密なんでございますがね、本人も先生ならばというし、私共も先生をお見かけ申してお願いの筋があるんでございますがね」
「たいへん改まったね、この呑んだくれをまたいやに買い被ったね」
「全く先生をお見かけ申してお縋《すが》り申すんでございますから」
「気味が悪いな、そうお見かけ申して、見かけ倒しにされてしまってはたまらねえ、あんまりお縋り申されて引き倒されてもやりきれねえが、男と見込んで頼まれりゃ、おれも道庵だ、ずいぶん頼まれてみねえ限りもねえのさ」
「実は先生、人を一人預かっていただきたいんでございますがね。ただ預かっていただくんならどこでもよろしうございますが、暫らく隠して置いていただきたいんでございます。先生ならば預ける方も安心、預けられる方も安心なんでございますから」
「俺に人を隠匿《かくま》えというのか。そりゃ大方|謀叛人《むほんにん》とか兇状持《きょうじょうも》ちとか、碌《ろく》な奴じゃあるめえ。いくら男と見込んで頼まれても、そんなのを預かるのは御免蒙りてえが、それも事と品によっては、ずいぶん引受けてみねえ限りもねえのさ。まあ、どんな人間だか言ってみてごらん」
「先生、謀叛人とか兇状持ちとか、そんな物騒な人じゃございません、女の子でございます、女の子を一人、預かっていただきたいんでございますが」
 ここで片腕のない床屋の親方というのが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の変形であること申すまでもありません。道庵先生は、百蔵の口から何事か頼まれると、
「遠くの親類より、近くの他人ということもあるて」
と言って、飄々《ひょうひょう》とその床屋を出かけてしまいました。
 道庵がこの床を出て行くと、入れ違いに、
「少々ものを承りとうございます」
 小股《こまた》の切れ上った女が、小風呂敷を抱えて店前《みせさき》に立って、
「おや百蔵さん」
と言って驚きました。これは女軽業の棟梁《とうりょう》お角《かく》であります。

 それから百蔵がお角を連れて、山下の雁鍋《がんなべ》へ来て飲みながらの話、
「親方、おか
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