兵さん、まあお待ちなさいまし、どうか穏かに話を致そうではございませんか。いったいあなた様方は、町奉行や酒井様などのような、古手といっては失敬だが、旧式のお役人と違って、こうして開けて来た西洋の新式の調練を受けておいでなさる歩兵さんでございましょう、それですから、モウ少し話がわかりそうなものでございますね」
と言って道庵は、自分の胸倉を取った歩兵の腕を逆に取り返しました。逆に取り返したと言っても、それを逆指《ぎゃくゆび》や片胸捕《かたむねと》りで鮮《あざや》かにとっちめて、大向うを唸《うな》らせるような芸当がこの先生にできるはずはないが、不思議なことに、荒っぽく道庵の胸倉を取った茶袋が、それを逆に取り返されると、甚だおとなしくその手を外《はず》して、
「うむ、そう言われればなるほどだ、我々は町奉行や新徴組のような融通の利かぬ者共とは違って、新式の調練を受けているものだ、高島流の砲術も江川流の測量も一切心得ている」
「左様でございましょうとも。人の胸倉を取るなんということは、みんな旧式の兵隊のすることでございます、歩兵さんに限ってそんなことはございません、やっぱり西洋流に、こうして握手ということをなさるんでございましょうね」
歩兵が存外|温和《おとな》しく外した手を、道庵先生が握り締めると、
「ははあ、貴様はなかなか話せる、医者だけあって脈処《みゃくどころ》がうまいわい」
茶袋は急にニコニコしてきました。
今まで威張りくさっていた茶袋が、急に面《かお》を崩して、
「貴様は話せる」
と言って道庵と握手をして、
「よしよし、万事貴様に任せてやる、貴様からこの者共をよく説諭《せつゆ》してやるがよい、拙者も今日のところは特別の穏便《おんびん》を以て聞捨てにして遣《つか》わす」
「いや、どうも有難うございます」
道庵は額を丁と拍《う》って、取って附けたようなお辞儀をした時分には、せっかく包みかけた道庵が危なく転げ出してきました。
「貴様は少々酔っているようだな」
「へえ、いつでも酔っぱらっているのでございます、町内では酔っぱらいで御厄介になっているのでございます」
何かわからないことを言ってまたお辞儀をする。茶袋はその形をおかしがって渋面《じゅうめん》を作り、
「以来、気をつけろ」
と言って出て行ってしまいました。道庵先生の出る幕は、大抵のことが茶番になってしまいます。夫婦喧嘩でもなんでも、道庵ひとたび出づれば大抵は茶にして納まりをつける。それが時としては道庵の一徳であり、時としては道庵先生の人格を軽くする所以《ゆえん》となることもあります。しかしながらこの場の働きは、たしかに先生の器量を一段と上げてしまいました。なんとなればこれはお鍋や八公の夫婦喧嘩とは違って、相手が始末の悪い茶袋ときていたところへ、事は上様の不敬問題だから、屯所へ引張られた上は、まず生命は覚束《おぼつか》ないものと思わなければならない。それを道庵が出て易々《やすやす》と解決をつけてしまったから、今まで黒山のように人だかりしていた連中が、ここで一度に哄《どっ》と喝采《かっさい》しました。そうして口々に先生の器量を讃《ほ》める言葉を記してみるとこういうことになります。
「どうでげす、あの道庵さんは大したものじゃあございませんか、お前さんごらんなすったか、ああしていったん胸倉を取られたところを道庵さんが逆に取り返した、あすこが見物《みもの》なんでげす、あれがその、柔術《やわら》の方で逆指といって、左の指の甲の方からこうして掴《つか》んで、掌を上の方へこう向けて強くあげるんでげすな、そうするとそれ、指を取られた方は、騒げば騒ぐほどこっちがその拳を自分の方へ向けてこう曲げるものですから、指が折れてしまう。柔術取《やわらと》りの名人にああして指を取られてしまったが最後、もう動きがつくことじゃあございませんからな、それでさすがの茶袋も我《が》を折って降参してしまいました」
「さよですかな、あの先生がそんな柔術取りの名人とは今まで知らなかった、酔っぱらってひっくり返ってばかりいるから腰抜けかと思ったら、やっぱりそれじゃあ、なんでござんすかな、道庵先生は柔術の方もちゃあんと心得ているのでございますかな」
「そこがそれ、能ある鷹《たか》は爪を隠すと言うんで、先生、ああしてしらばっくれて酔っぱらっているけれど、武芸十八般ことごとく胸へ畳み込んでいるところを俺はちゃんと見て取った、その上にお医者さんで脈処《みゃくどころ》を心得ているから鬼に金棒でございますよ」
「なるほど。それにしてもおかしいのは、あの茶袋が道庵先生に手を取られると、痛いとも痒《かゆ》いともいう面《かお》をしないで、ニコニコと笑ったところがわかりませんな」
「いやそうではない、あの茶袋もあれで柔術にかけてはなかなかの
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