たのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」
「それはただいまお帰りになりました」
「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」
「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」
「白々《しらじら》しい言いわけを申すな。どうも当節は、ややもすればお上の御威光を軽く見る奴があって奇怪《きっかい》じゃ、見せしめのために厳しくせんければならん。亭主、この上かれこれ申すと貴様も同罪だぞ」
「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」
「喧《やかま》しい、強《た》ってこいつが悪口を申し上げたことでないとならば、その本人をここへ連れて来い。その本人が出て、私が申しました、恐れ入りましたと白状した時に限ってこいつを許してやる」
「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお捕《つか》まえなさるのはあんまり御無理なことで……」
「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は退引《のっぴき》のならぬことじゃ。しかし、理非曲直が立たねば政道も立たぬ道理じゃ、歩兵隊は無理を言わぬという証拠にその証拠を見せてやる。これ見ろ、これはいま貴様の家の店前《みせさき》で拾ったものじゃ、さあこれを見たら文句はあるまい」
 突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ乍《なが》ら売弘《うりひろ》めの為の口上、家伝いゑもち、別製|煉《ねり》やうくん」と書いた、紛《まぎ》れもなく今の将軍家を誹謗《ひぼう》した刷物《すりもの》です。悪い奴に、悪い物を拾われました。
「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで罷《まか》り出ろ。あとのやつらは神妙に待っておれ、お差図があるまでここを動いてはならん」

 この危急存亡の秋《とき》に、天なる哉、命《めい》なる哉、ゆらりゆらりとこの店へ繰込《くりこ》んだものがありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。
「親方、これはどうしたというものだ」
 道庵先生はぬからぬ面《かお》。

         九

「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
 片腕のない髪結床《かみゆいどこ》の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面《かお》をして聞いていましたが、
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って苟且《かりそめ》にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
 道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、
「無礼な奴、控《ひか》えろ」
「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは嘘《うそ》にきまっていますよ、私が成り代ってこの通りお詫《わ》びを致しますから、今日のところはおおめに見てやっておくんなさんしょう」
 道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、
「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは猪口才《ちょこざい》だ。こっちには確かに訴え出でた人もあり、この通り証拠もある。なお申し開くことがあれば屯所へ出てから申せ、貴様も証人として出たくば引張ってやる」
 歩兵はうるさいから、道庵の胸倉《むなぐら》を取って嚇《おどか》すと、
「歩兵さん、歩
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