を充分に取締るの力さえなかったものです。
四
徳川幕府の影が薄くなって、そのお膝元《ひざもと》でさえこの始末。
貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と覚《おぼ》しき強盗が蔭へ廻って悪事を働き、なお火事場泥棒式の悪漢が出没するけれども、それを取締る捕方《とりかた》は出て来るという評判だけで、ちっとも出て来ません。
人形町の唐物屋《とうぶつや》を貧窮組が叩き壊した時は、朝の十時頃から始めて家から土蔵まで粉のように叩き壊してしまいました。いくら多勢の力だからと言って、これは人間業とは思われませんでした。表の店の鉄の棒が、飴を捻《ねじ》るように捻切ってありました。それを捻切ったのは十五六の子供であったということ、それは天狗の子に相違ないということ、天狗の子供が先に立って、大勢の指図をして歩くのだというようなことが言い触らされました。
「天誅《てんちゅう》」の文字が江戸の市中にも流行《はや》り出して来て、市民を戦慄《せんりつ》させたのはそれから幾らもたたない時でありました。この「天誅」の文字は大和の「天誅組」から筋を引いたものかどうかわからないが、武士と武士との間に行わるるのみではなく、町人にまで及びます。ひそかに人の首を斬って、橋の上や辻々へ捨札《すてふだ》と共に掛けて置きます。市民の財産の危険はようやく生命の危険に脅《おびや》かされてきました。
さても本所の鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋《さがみや》という夜鷹宿《よたかやど》へ、やっと落着いた米友は、お君から何かの便りがあるかと思って、前に両国の見世物を追い出された晩、お君と二人で宿を取った木賃宿へ行って様子を聞いて、まだ何も消息がないと聞いて失望して、帰りがけに、両国橋を渡りかかると、多くの人が橋の上に立っていますから、米友もなにげなく覗《のぞ》いて見ました。米友ではとても人の上から覗き込むことはできないから、人の腰の下から潜《もぐ》るようにして見ると、橋の欄干《らんかん》へ板札が結び付けてあります。米友は学者(お君に言わせれば)ですから直ぐにその板の文句を読むことができました。
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「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来|賄金《まひなひきん》を請ひ、府下の模様を内通致し、剰《あまつさ》へ婦人を貪り候段、不届至極につき、一夜天誅を加へ両国橋上に梟《さら》し候所、何者の仕業に候|哉《や》、取片附け候段、不届|且《かつ》不心得につき、必ず吟味を遂げ同罪に行ふべき者也。
月 日[#地から3字上げ]報国有志
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此高札三日の内、取片附け候者|有之《これあら》ば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也」
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米友はその文句を読んでしまったが、腑《ふ》に落ちないことがありました。
「この札はこりゃ誰が立てたんだ」
米友は独言《ひとりごと》のように聞いてみましたけれど、誰も返事をするものがありません。
「この高札三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也てえのは穏かでねえ」
米友が仔細《しさい》らしくこんなことを言い出したから、集まっていた人は、それを聞いて滑稽に思うよりは怖ろしく感じました。そうして何者がそんなことを言うかと思って、声の出たところをよく見ると、人の股《また》の間にモゴモゴしている米友でしたから、みんなプッと吹き出しました。
米友にとっては笑われる自分よりも、笑うやつらの方がおかしい。単純な米友は、理由なきに冷笑されたことを不本意として、ムッとしてきました。
「何がおかしいんだい、俺《おい》らの言うことが何がおかしいんだい」
「若い衆、そう怒るもんじゃねえよ」
米友がムキになったのをなだめたのは老人。
「こりゃ天誅組というやつなんだから、お役人でも始末にいかねえんだ」
「天誅組というのは何でございます、お爺さん」
米友は老人の面《かお》を見上げる。
「天誅組というのは、このごろ流行《はや》り出した悪い貼紙《はりがみ》で、疱瘡神《ほうそうがみ》よりもっと剣呑《けんのん》な流行神《はやりがみ》だ」
「そんな剣呑な流行神を平気で眺めている奴の気が知れねえ」
見物はまたドッと笑い出して、
「うむ、全く気が知れねえ、若い衆、お前なんとかひとつ、その流行神を始末してみねえな、人助けになるぜ」
「ばかにするない」
米友が眼をクルクルして群集を見廻した、その面《かお》つきと身体《からだ》を見て群集はやはり笑わずにはいられません。高札《こうさつ》よりもこの方がよほど見栄《みば》えがあると思って、
「豪《えら》い!」
拍手喝采してこの奇妙な小男の、本気になって憤慨するのを弥次《やじ》り立てて楽しもうと
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