すると、米友はかえってそれらを相手にはしないで、欄干に結びつけてあった高札の縄目を解きにかかったから、
「おやおや」
弥次連の面《かお》の色が変ります。
「おい、若い衆、小せえの、何をするんだい」
慌《あわ》てて留めたのは老人。
「冗談《じょうだん》じゃねえ、煽《おだ》てに乗るも大概がいい、その高札へお前、指でも差そうものなら、大変なことになるぜ、引込んでいなせえ、いなせえ」
「ナニ、かまわねえ」
「三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきものなり――この字がお前にも読めたんだろう、天誅というのは首が飛ぶことなんだ、いいかい、この高札を動かそうものなら、お前の首がなくなるんだ、お前が遠からず首を斬られてしまうんだぜ」
「誰が俺らの首を斬りに来るんだ」
「天誅だよ、天誅だよ」
「天誅が首を斬りに来るのか。天誅というのは何だ、俺らはまだ天誅に首を斬られるような悪いことをした覚えはねえ」
米友は留めてくれる老人の手を振り払って苦もなく高札の縄を解いてしまい、その高札を振り上げて橋の上から川の中へポンと投げ込んでしまいました。
「無茶なことをする奴だ」
さすがの弥次馬《やじうま》も舌を振《ふる》ってしまいました。
これが不思議な縁で米友は、その翌日から本所の相生町《あいおいちょう》の箱屋惣兵衛一家の留守番になってしまいました。それで鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋から気軽くそこへ移ってしまいました。
この縁は昨日の高札の一件からであります。米友が高札を川へ抛《ほう》り込んだために、町内からこの家の留守番を押《おっ》つけられたものです。
米友もまた押つけられたことをかえって幸いにして箱惣《はこそう》の留守番を欣《よろこ》んで引受けてしまいました。
米友が留守番を押つけられた箱惣の家は大きな家でした。けれども誰も一人も住んではいないのです、ガラあきです。ただの空家《あきや》と違って誰も留守居をし手[#「し手」に傍点]のない空家なのです。昨日、米友が投げ込んだ札の文句にも、「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金を請ひ、府下の模様を内通致し、剰へ婦人を貪り候段……」とある通り、浪士たちに悪《にく》まれてツイこの間の晩、首を斬られて、両国橋へ梟《さら》し物にかけられた惣兵衛の家です。その首が誰がどうしたか直ぐに片附けられてしまうと、その後へ立てられた高札がすなわち米友の川へ投げ込んだものであります。その後難《こうなん》の人身御供《ひとみごくう》の意味で留守居を押附けられ、米友は、主人の居間であった贅沢《ぜいたく》な一間でゴロリと横になっている。その傍には例によって槍が一本あります。
何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は疚《やま》しいところがないと、ひとりで力《りき》んでいたけれど、二晩三晩というものは、サッパリ何も手答えがないから、米友も力瘤《ちからこぶ》が弛《ゆる》んできました。四晩目の晩、雨が降って鬱陶《うっとう》しいものだから、行灯《あんどん》の下で、やはり寝ころんで絵草紙を見ていました。
「今晩は――今晩は」
二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、
「今晩は」
返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。
「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」
「今晩は」
「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」
「あの、仕出し屋でございますが……」
ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから入用《いりよう》はないと思って、
「弁当箱を取りに来たのかい」
「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」
「ナニ、俺《おい》らに一口上げてくれって? そんな人はいねえはずだが」
「どうかここをおあけなすって下さいまし」
「どうもおかしいな」
米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた番傘《ばんがさ》を被《かぶ》って岡持《おかもち》を提げて立っています。
「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」
「町内の衆でございます」
「町内の誰だろう」
「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」
「俺らの方ではよくわからねえ」
米友は一合の酒と鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を受取りました。仕出し屋の女は帰ってしまいます。米友は、またもとのところへ帰って、鰻の丼と一合の酒を前に置いて、しきりにそれをながめていました。一合の酒も飲んでみたくないことはない、鰻の丼も食慾を刺戟しないこともない、けれども町内の誰がよこした
前へ
次へ
全34ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング