てられているところへ、お前だけが俺に濡衣《ぬれぎぬ》を着せようというものだ」
「そりゃいけません、ここの家に女っ気が有るか無いかということは、一目見れば直ぐにわかりますよ、女は細かいところへ気がつきますからね」
「それでは、俺の家に女がいるというのかね」
「そうですとも」
 こんなことから痴話《ちわ》が嵩《こう》じてゆきました。

         十

 その時分、根岸に住んでいたお絹が、今日は小女《こおんな》を連れて、どこの奥様かという風をして、山下を歩いて帰ります。
 雁鍋《がんなべ》の前へ来た時に、見たような人がその店から出かけたのに気がつきました。
 男と女と二人で微酔機嫌《ほろよいきげん》で店を出かけたうちの男の方が、東海道下りから甲州入りまで附纏《つきまと》って来たがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵に相違ないから、お絹は自分の面《かお》を隠そうとしました。
 しかし向うはちっとも気がつかないで、二人で笑いながら話し合って歩いて行きます。片腕の無い百蔵は前と変らず元気なもので、身なりなども小綺麗にしているのでした。女はと見れば、これは眉を落した年増《としま》でなかなか美《い》い女でした。
 お絹はそれを見ると、むらむらと嫉《ねた》ましくなりました。自分はなにもがんりき[#「がんりき」に傍点]に惚《ほ》れてはいない、東海道で附纏われた時も、内心では軽蔑《けいべつ》しながら調子を合せて来たが、男はなかなかしつこい。しつこいほど面白がって翻弄《ほんろう》気取りで一緒に来て、とうとう腕を一本落させることにしてしまって、死ぬか生きるかでウンウン唸《うな》っているのを、山の中へ置きばなしで逃げ出して、その時は、さすがに気の毒と思わないでもなかったが、思い出した時分には、柄にない男ぶりをしてわたしを張りにかかった、その罰はああしたものと腹の中で笑っているくらいでしたが、今その男がこうしてピンピンしている上に、他女《あだしおんな》と摺《す》れつもつれつして歩くところを見ると、お絹は自分勝手な嫉《ねた》みをはじめてしまいました。
「そういうわけなら、あの子をわたしが預かりましょうよ」
 それとも知らず、男女の話は甘ったるい。
「そんなことはできねえ」
 百蔵はわざとらしく首を振ります。
「そんなに、わたしという者に信用が置けないの」
「お前に預けて売物にでもされた日に
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