は、せっかくの生娘《きむすめ》が台無しだ」
「わたしはまた、お前さんが預かって食物《くいもの》にしやしないかと、それが心配だ」
「預かり物を食う奴があるものか」
「どうだかわかりゃしない、猫に鰹節《かつぶし》を預けたようなものだから」
「第一、おれに食われるような娘じゃねえ、お邸奉公を勤めていた娘で、堅いことこの上なしだ、友達の義理で退引《のっぴき》ならず預かってはみたものの、おれも実は心配なのだ」
「預けた方も心配でしょう」
「心配というのはそんなことじゃねえが、いつまでも俺のところへ置けねえわけがあるのだから、それで今日、よそへ預け換える約束をしてしまったのだ」
「どこへ預けようと言うの」
「どこでもいいじゃねえか」
「それを言わないと放さない」
 人目の薄いのをいいことにして、二人は肩と肩とを突き合せて、こんなことを話しながら行くのを、お絹はみんな聞いてしまって、この男も女も憎らしくなりました。よし、どこへ行くか、行く先を突きとめてやろうという気になりました。
「詰《つま》らなく嫉《や》かれるのも嫌だから言ってしまおう、長者町の道庵という剽軽《ひょうきん》なお医者さんへ預けることにしてしまったんだ」
「長者町の道庵さん?」
 こう言って男女が山下の銀床《ぎんどこ》という床屋へ入るのまで、お絹はちゃんと見届けてしまいました。
 根岸の住居《すまい》へ帰ってからお絹は、異様の嫉《ねた》ましさで悩まされました。惚れてもいない男だが、ああなってみると、なんだか仕返しをしてやらなければ納まらなくなりました。
 と言って、自分が男をこしらえて見せつけてやるほどのことではない。なんとかして、いったん自分の方に向いていた男の心を、もう一ぺん向き直させなければ女の面目が立たないように思いました。一緒に歩いていた女は、ありゃ女房だろうか妾だろうかと、よけいな詮索《せんさく》までしてみたくなりました。いったいあの男が、徳間《とくま》の山の中で抛《ほう》り放しにして置かれてあったのを助かって出て来たのが不思議、誰が助けて来たのだろう、ことによったら山の中へあの女が通りかかって介抱した、それからの腐れ縁じゃないか知らなどとも考えてみました。それはそれにしてもあの女……
「ああ、そうだ」
 とうとう思い当ってお絹は小膝《こひざ》を丁と打ちました。あの女はたしか忠作のところへ金を借りに来た
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