ちを取られてしまいました、申しわけのないことでございます」
「それはそうと親方、お前さんは何かこの道庵に内緒《ないしょ》の頼みがあると言いなすったから、それで俺《わし》はやって来たのだが、内密《ないしょ》の頼みというのはいったい何だね」
「そりゃ先生、ほんとうに内密なんでございますがね、本人も先生ならばというし、私共も先生をお見かけ申してお願いの筋があるんでございますがね」
「たいへん改まったね、この呑んだくれをまたいやに買い被ったね」
「全く先生をお見かけ申してお縋《すが》り申すんでございますから」
「気味が悪いな、そうお見かけ申して、見かけ倒しにされてしまってはたまらねえ、あんまりお縋り申されて引き倒されてもやりきれねえが、男と見込んで頼まれりゃ、おれも道庵だ、ずいぶん頼まれてみねえ限りもねえのさ」
「実は先生、人を一人預かっていただきたいんでございますがね。ただ預かっていただくんならどこでもよろしうございますが、暫らく隠して置いていただきたいんでございます。先生ならば預ける方も安心、預けられる方も安心なんでございますから」
「俺に人を隠匿《かくま》えというのか。そりゃ大方|謀叛人《むほんにん》とか兇状持《きょうじょうも》ちとか、碌《ろく》な奴じゃあるめえ。いくら男と見込んで頼まれても、そんなのを預かるのは御免蒙りてえが、それも事と品によっては、ずいぶん引受けてみねえ限りもねえのさ。まあ、どんな人間だか言ってみてごらん」
「先生、謀叛人とか兇状持ちとか、そんな物騒な人じゃございません、女の子でございます、女の子を一人、預かっていただきたいんでございますが」
 ここで片腕のない床屋の親方というのが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の変形であること申すまでもありません。道庵先生は、百蔵の口から何事か頼まれると、
「遠くの親類より、近くの他人ということもあるて」
と言って、飄々《ひょうひょう》とその床屋を出かけてしまいました。
 道庵がこの床を出て行くと、入れ違いに、
「少々ものを承りとうございます」
 小股《こまた》の切れ上った女が、小風呂敷を抱えて店前《みせさき》に立って、
「おや百蔵さん」
と言って驚きました。これは女軽業の棟梁《とうりょう》お角《かく》であります。

 それから百蔵がお角を連れて、山下の雁鍋《がんなべ》へ来て飲みながらの話、
「親方、おか
前へ 次へ
全68ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング