取り手だが、何しろ道庵先生に会ってはその敵でないと、つまり自分に心得があるだけに、彼を知り己《おの》れを知るんでげすな、だから指を取られるとすぐに、お前は話せると言って莞爾《にっこり》と笑って、尋常に引上げたところがあれで味のあるところで、道庵さんが敵をとっちめながら、ペコペコお辞儀をして先を立てておく呼吸なんぞも、なかなか見上げたものでございますな、エライものでございます」
 輿論《よろん》は往々、土偶人形《でくにんぎょう》をも偉大なものに担《かつ》ぎ上げてしまいます。道庵先生もここで暫く輿論の勝利者となりました。
 そのあとで床屋の親方は、道庵先生を座敷へ招いて一口差上げ、
「先生、おかげさまで助かりました。いったいどうしたわけでござります」
「あははは」
 道庵先生は笑って、
「あれは二両取りという新手だ、あれで首尾よくとっちめてしまった」
「いや町内では、もう大変な評判で、さっきから入り代り立ち代りお礼にやって来ますが、なんでも先生が柔術の達人で、茶袋を手玉に取って投げたと言って騒いでいますが、その二両取りというのは、やはり柔術の手なんでございますかね」
「あはははは」
 道庵はいちだんと大口をあけて笑い、
「柔術《やわら》の手だとも、俺が新発明の柔術の新手だわい、尤《もっと》も古い型を少しは取り入れてあるんだがな、それを場合に当って器用に施《ほどこ》し用いたというのが拙者の働きさ」
「その型をひとつ、伝授を受けたいものでございますね」
「あはははは、いいとも、二両取りの型をひとつ話してやろう。まず最初に茶袋が、わしの胸倉を取った時、その手先を逆に取り返したわたしの働きを見たかい。あの時それ、そっと一両握らしてやった」
「なるほど」
「そうして利目《ききめ》のところを見ていると、グンニャリと来たから、こいつは手答えがあるわいと、それを下へ持って行って西洋流の握手をやる時にまた一両、それで都合《つごう》二両取り、わしの方から言えば二両取られだ、それでスッカリ柔術が利いてしまった。二両取りの新手というのは、つまりそれだけのものさ」
「なるほど、そんなことだろうと思って、私もあの時にお手の中を見ていました。私の方でその手を先に用いさえすれば何のことはなかったのでございますが、あの茶袋の言い分があんまり癪《しゃく》にさわるものでございますからツイ持前が出て、先生に落
前へ 次へ
全68ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング