たのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」
「それはただいまお帰りになりました」
「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」
「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」
「白々《しらじら》しい言いわけを申すな。どうも当節は、ややもすればお上の御威光を軽く見る奴があって奇怪《きっかい》じゃ、見せしめのために厳しくせんければならん。亭主、この上かれこれ申すと貴様も同罪だぞ」
「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」
「喧《やかま》しい、強《た》ってこいつが悪口を申し上げたことでないとならば、その本人をここへ連れて来い。その本人が出て、私が申しました、恐れ入りましたと白状した時に限ってこいつを許してやる」
「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお捕《つか》まえなさるのはあんまり御無理なことで……」
「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は退引《のっぴき》のならぬことじゃ。しかし、理非曲直が立たねば政道も立たぬ道理じゃ、歩兵隊は無理を言わぬという証拠にその証拠を見せてやる。これ見ろ、これはいま貴様の家の店前《みせさき》で拾ったものじゃ、さあこれを見たら文句はあるまい」
 突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ乍《なが》ら売弘《うりひろ》めの為の口上、家伝いゑもち、別製|煉《ねり》やうくん」と書いた、紛《まぎ》れもなく今の将軍家を誹謗《ひぼう》した刷物《すりもの》です。悪い奴に、悪い物を拾われました。
「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで罷《まか》り出ろ。あとのやつらは神妙に待っておれ、お差図があるまでここを動いてはならん」

 この危急存亡の秋《とき》に、天なる哉、命《めい》なる哉、ゆらりゆらりとこの店へ繰込《くりこ》んだものが
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