ありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。
「親方、これはどうしたというものだ」
 道庵先生はぬからぬ面《かお》。

         九

「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
 片腕のない髪結床《かみゆいどこ》の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面《かお》をして聞いていましたが、
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って苟且《かりそめ》にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
 道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、
「無礼な奴、控《ひか》えろ」
「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは嘘《うそ》にきまっていますよ、私が成り代ってこの通りお詫《わ》びを致しますから、今日のところはおおめに見てやっておくんなさんしょう」
 道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、
「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは猪口才《ちょこざい》だ。こっちには確かに訴え出でた人もあり、この通り証拠もある。なお申し開くことがあれば屯所へ出てから申せ、貴様も証人として出たくば引張ってやる」
 歩兵はうるさいから、道庵の胸倉《むなぐら》を取って嚇《おどか》すと、
「歩兵さん、歩
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