くく》る」
 どうも相手が悪い、と店の者は震え上りました。
「そんなわけではございません……実は」
 最後の口論の相手になった男、しかもそれは公方様を悪く言ったのではなく、公方様を悪く言ったのを憤慨した方が何か申しわけをしようとすると、
「貴様だろう、無礼者め!」
 茶袋は飛んで行ってその男の横面《よこつら》をピシリと打って、その手を逆に捻《ひね》り上げてしまいましたから、
「ア、これは、これは、滅相《めっそう》なことをなされますな、私は公方様の悪口なんて、そんなことを申し上げた覚えはございません」
「いや、貴様に違いない、お膝元に住居《すまい》致し、永らく徳川家の御恩を蒙《こうむ》りながら、公儀に対して悪口《あっこう》を申すとは言語道断《ごんごどうだん》な奴」
「いえいえ、私がなんでそのようなことを申しましょう、実は……私の方でそれをとめましたので、そんなことを言っては恐れ多いとそれをとめましたのでございますから……飛んでもない、私がそんなことを」
「こいつが、こいつが、自分の罪を人になすりつけようと致すか、いよいよ以て図々しい奴」
 茶袋はその口を捻《ね》じ上げました。それを見兼ねて片腕の親方が割って出で、
「これは歩兵様、まあお聞きなすって下さいまし、このお方は決して左様なことを申し上げたのではございません、実はこういうわけなんでございます」
「貴様は何だ」
「私はこの店の亭主でございまして、銀と申します、私が細かいことを存じておりますから、どうかお手をおゆるめなすって、一通りお聞きなすって下さいまし」
「貴様、知っているならナゼ最初から知ってると申さん、正直に言ってみろ」
「公方様の悪口を申し上げるほどのことではございません、ただ話の調子でございまして、ツイ威勢のいいことを申しましたのが、少しばかり声が高くなりましたので。それもこのお方ではございません、そんなことを申しましたお客様はたった今お帰りになってしまいましたので。このお客様なんぞは傍《わき》で聞いておりまして、そんなことを言ってはよくなかろうぜと気をつけて上げたくらいでございます。どう致しまして公方様の悪口なんて、私風情《わたしふぜい》がそんなことを申し上げようものなら口が曲ってしまいまする。この方はそれをお留め申しただけでございます、どうか御勘弁なすって下さいまし」
「ナニ、この男が悪口を申し上げ
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