高いのが急に紙と筆を下へ投げ捨てるように差置いて、
「怪しい奴」
手裏剣《しゅりけん》を抜いて発矢《はっし》と投げる。投げた方角は薩州邸の馬場から此邸《こちら》の隔ての塀あたり。低い方の武士は下に伏せてあった龕燈《がんどう》を手早く持ち直してその方角に突きつけると、池の上を飛ぶように汀《みぎわ》を走って女中部屋の方へ行く怪しの者。
二人の武士は高いところにいたから、怪しい者の影を龕燈の光に照しては見たけれど、大きな声を揚げて屋敷の中を騒がすべく遠慮するところがあったものらしい。それで、
「怪しい奴」
「取逃がしたか」
と火の見櫓の上で面を見合せて、空しく下の闇を立って見ていると、池のほとりで、
「何者だ!」
「呀《あっ》!」
ざんぶと水の中へ落ち込んだような物の音。
「出合え、出合え、いま女中部屋へ曲者《くせもの》が入った、早く出合え」
ちょうどこの時、邸外を通り合せたのが白金《しろがね》に屯所《とんしょ》を置く荘内藩《しょうないはん》の巡邏隊《じゅんらたい》でした。短い槍と小銃を携《たずさ》えた四人の隊士が一人の伍長に率いられて、三田通りを巡邏してこの邸の外まで来た時に、邸内で曲者あり出合えという声を聞いたから、そこで五人が一時に立ちどまりました。
「御同役、何かこの邸内で変事がござったようじゃ」
「左様、何か物騒がしい」
市中取締りが、この時分には町奉行の手だけでおさまりのつかなかったことは前に言う通りであったから、幕府は譜代の大名と五千石以上の旗本を択《えら》んで、それぞれ持場持場を定めて八百八街《はっぴゃくやまち》を巡邏させたのでありました。そうして、もっとも危険区域とされた三田の藩州附近、伊皿子《いさらご》、二本榎《にほんえのき》、猿町、白金辺を持場として割当てられたのが荘内藩であります。
この荘内の巡邏隊は今、徳島藩邸内の騒ぎを聞いて、足を留めて中の様子を窺《うかが》っていると、脇門《わきもん》がギーッとあいて、そこから形を現わしたのが、以前火の見櫓で絵図面を取っていた覆面のふたり。
「さてこそ!」
巡邏隊は短槍と小銃とを二人につきつける。
「これは巡邏隊の諸君か、お役目御苦労」
中から出て来たふたりは、かえって心安げに言葉をかけたが、こっちは油断をしないで、
「名乗らっしゃい、我々は荘内藩の巡邏隊でござる」
「拙者は上《かみ》の山《やま
前へ
次へ
全68ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング