むことにしてみよう。素直《すなお》にお暇の出ないことは知れているから、今夜、わしが人目に立たぬようにお前のところへ迎いに行く、それまでに身の廻りの物を用意して待っているがいい。それからお邸の間取り、お前の部屋の案内を聞かしておいてもらいたい」
 そこで七兵衛はお松から、邸の内部の模様をややくわしく聞き取って、二人はこの店を別れました。

         七

 お松は七兵衛と別れて、越後屋の奥座敷を出て、薩州邸の長い土塀をグルリと廻って徳島藩の裏門を入りました。
 その晩、お松はいろいろの思いで手近のものを用意して、日が暮れるのを待ち兼ね、日が暮れると、夜の更《ふ》けるのを待ち兼ねていました。ほかの女中たちは、昼の疲れで早くから眠ってしまいました。お松は女中部屋の戸を細目にあけて待ち構えています。
 屋敷の庭には大きな池があって、池の向うには高い火の見櫓が立っています。お松が夜更けて七兵衛の合図を待つ時分に、この火の見櫓の上に二つの黒い影法師がありました。共に夜番や火の番の類《たぐい》ではなく、覆面をして両刀を差して一人は手に龕燈《がんどう》を携えていました。この二人の武士は相当に身分あるものらしく、櫓《やぐら》の上から、目の下に見ゆる薩州邸の内を仔細に見ていました。そうして一人の丈《たけ》の高い方が、矢立《やたて》と紙を取り出しては見取図を作っていました。
 お松はそこに人のあることは知らないで、一心に七兵衛の合図ばかりを待っていると、池の中へトボーンと礫《つぶて》の音。
 その音を聞いて、お松は立ち上りました。戸を細目にあけると、闇の中ながら、今どこからともなく落ちて来た礫が、池の水を動かして波紋がゆらゆらと汀《みぎわ》の水草の根を揺《ゆす》っているのを見て、お松は胸を轟《とどろ》かしながら四辺《あたり》を見廻しました。続いて第二の礫の音。
 この時、火の見櫓の上で見取図を作っていた丈の高い方が、
「今の音は?」
 聞きとがめると、
「池の中で魚が跳《は》ねたのでござろう」
 背の低い方が答える。
「魚の跳ねる音ではなかったようだ」
「と言うてこの夜中に――」
「ともかく、あの音は礫の音。ことによると、薩州の方で誰かここを認めた奴があるかも知れぬ」
「油断はなり申さぬ」
 薩州邸内の見取図を作っていた二人の武士は、櫓《やぐら》の上から前後左右を警戒すると、背の
前へ 次へ
全68ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング