虫の居所《いどころ》か、頭ごなしに米友を罵《ののし》って、水を浴びせかけないばかりにして、米友を追い出させてしまいました。
いつもの米友ならば我慢しきれないところでしたけれども、感心に深く争わずしてこの小屋を出たのは、日の暮れる時分でありました。
さすがの米友もこの時は、実に口惜《くや》しかったと見えて、両国橋の真中に来た時分に、立ち止まって橋の欄干《らんかん》から下を覗きながら口惜し涙をハラハラと落します。
いくら自分が粗忽《そこつ》で黒ん坊を失敗《しくじ》ったからと言って、せっかく聞きに行ったのだから、一通りの消息ぐらいは知らせてくれてもよかりそうなものを、ああして寄ってたかって冷かした上に、ガミガミと突き出してしまうことは、いくら稼業柄《かぎょうがら》とは言いながら薄情なやつらだと、それで口惜しくてたまりませんでした。
「腹が立ってたまらねえ」
米友は歯噛みをして、両国広小路見世物小屋の方を睨《にら》めました。
「覚えてやがれ」
米友の面《かお》に殺気が浮びました。広小路の見世物小屋の方を睨んで、
「覚えてやがれ」
橋の真中から相生町《あいおいちょう》の方へ歩き出すと、
「もし、兄《にい》さん」
と肩を叩いたものがあります。
「誰だ」
米友が振返って見ると七兵衛でありました。もとより米友は七兵衛を知らないが、七兵衛は米友に見覚えがあります。
「兄さん、お前さんはこれからどこへおいでなさるのだ」
「どこへ行ったっていいじゃねえか」
「さっきからここで見ていると、お前さんは何か心配がおありなさるようだ」
「大きにお世話だ」
米友は七兵衛の面《かお》を睨みました。
「私は通りかかりの者だが、どうやらお前さんの姿に見覚えがあるから、失礼なことだが暫らく立って見ていました、そうするとお前さんがしきりに何か言って腹を立っておいでなさるようだから、もしも変な気を起してざんぶりとおやりなさるのかと思って、こうして両手を出して見ていましたよ」
「大きにお世話じゃねえか、川へ飛ぼうと首を縊《くく》ろうとお前たちの世話にゃならねえ」
米友は悲憤の思いでいっぱいですから、何を言っても耳へは入りません。
「兄さん、もしお金にでも困るようなことがあったら、ずいぶん力になって上げようじゃないか」
「大きにお世話だと言うに。いつお前に俺《おい》らが金を借りたいと言ったい」
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