先にお君からの便りがなければならぬ。友さんいま帰ったよ、と言ってお君が真先にこの米友を尋ねなければならないのだ。つづいてムク犬も尾を振って咽喉《のど》を鳴らして跟《つ》いて来なければならないはずなのだ。それにもうビラも出来て諸方へ廻っているというのに、自分のところへ音沙汰《おとさた》がない。お君はこの米友を忘れてしまったのか、あんな仲間へ入っているうちに気象《きしょう》が変って、俺らのことなんぞはどうでもいいことにしてしまったんじゃあるまいか、どうも訝《おか》しい。米友は単純な頭をいろいろに捻《ひね》ってみたけれど結局、米友の知恵ではどうしてもその間の消息がわからないから、これは直《じか》に行って掛合ってみるよりほかはないと思案を固めました。
 しかしながら米友には、あの小屋へ行けないわけがある。見世物小屋の掟《おきて》で、あんなことをしてブチ壊しをやった芸人は、見世物師の背後についている破落戸《ならずもの》が寄ってたかって手酷《てひど》い制裁を加えて追い出すのであったが、米友のは全く無邪気でやった失策《しくじり》であり、且つ槍の名人ときているから、荒っぽいことをせずに単に追放だけで済みました。それを今ノソノソとあの小屋の附近へ近寄ろうものなら、どんな目に遭《あ》うか知れない。両国広小路は米友にとって鬼門《きもん》であるけれど、今はその危険を冒しても米友はそこへ行かねばならなくなりました。
「おじさん、どこへ行くの」
「うむ、俺《おい》らは広小路まで行って来る」
と言って米友は、急に跛足《びっこ》を引きずってこの家を出かけました。

「こんにちは」
 もう開場三日前、小屋の内外の装飾で忙しいところへ米友はやって来ました。
 木戸番は怪訝《けげん》な面《かお》をして米友の面を見ていると、米友は、
「軽業の娘たちはみんな甲州から帰ったのかね、一人残らず帰って来たのかね」
「はい、みんな帰りましたよ」
「では君ちゃんも帰ったんだろう。君ちゃんが帰ったなら、ちょっとここまで面を出してもらいてえ」
「お前さんはどなたでございます」
「君ちゃんに会えばわかるんだ」
「…………」
「こんな人が尋ねて来たって、君ちゃんにそう言っておくれ」
 木戸番は米友の面をよく見ました。
「今こっちの方は忙しいんですから手が放されません、裏から廻って楽屋の方へ行ってごらんなさいまし、楽屋でお聞き
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