と撲りました。木戸の前にいた見物も、どちらかといえば見世物側に同情があって、市五郎の大面《おおづら》を憎がっていたのですから、そうなると面白がって、
「お前方は役割を撲るなんて、飛んでもないことをする、まあ俺たちに任してくれ」
と言っては市五郎をポカポカと撲る。気の毒なのは市五郎で、ポカポカと八方から拳《こぶし》の雨を蒙って、半死半生《はんしはんしょう》の体《てい》にまで袋叩《ふくろだた》きにされてしまいました。
「覚えていやがれ、役割の市五郎に、よくも恥をかかせやがったな」
 役割が撲られたという噂《うわさ》が八方へ散ると、ちょうどその辺の賭場《とば》やなにかに集まっていた多数の折助が、それを聞きつけたからソレと言って飛び出して来ました、それで事が大きくなりました。
 折助連中といえども、そう役割ばかりを有難がっているものはない。なかには市五郎がテラを取ったり頭を刎《は》ねたり、自分ばかり甘い汁を吸って、こちとらにはケチで、そのくせ、いやに大物《おおもの》ぶっているのを面憎《つらにく》がっているのもあるのですから、市五郎がここで撲られたことをかえって面白がって、都合によっては自分も大勢と一緒に袋叩きの方へ廻ろうという連中もないではないのですから。事情を聞けば、騒ぎはそんなに大きくならなかったかも知れませんが、なにしろ役割も市五郎ばかりではなく、なかには人望のある役割もあるのだから、そのいずれの役割が撲られたのか、次第によっては折助|一統《いっとう》の面《かお》にかかわると思って博奕《ばくち》半ばで飛び出すと、かねて折助と懇意にしている遊び人連中がその加勢にと飛び出して、哄《どっ》と女軽業の前へ押寄せて来ました。
 こうなると、この女軽業一軒ではなく、すべての見世物小屋がパッタリと商売を止めて、女芸人や年寄は避難させ、丈夫そうなやつだけが合戦の用意をはじめます。長井兵助などは、長い刀をしきりに振り廻しました。
 けれども騒動の中心になったのはやはり娘軽業。木戸も看板も滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に叩きこわされて、木戸前で組んずほぐれつしていた群集は、ドッとばかりに場内へ乱入してしまいました。そこで、また敵味方、弥次馬もろともに、入り乱れて撲り合い噛み合いになりました。
 見物の中で血の気の多いのは、頼まれもしないに弥次馬の中へ飛び込んで、喰い合い噛み合います。幸いに見物の中に気の利いたのは、菰張《こもば》りや板囲《いたがこ》いを切りほどいて女子供をそこから逃がしたから、怪我人は大分あったけれども、見物から死人は出さないで一通りは逃がしたけれど、かわいそうに軽業をする美人連は、逃げ場を失うて、櫓《やぐら》の高みや軽業の台の上にかたまって、高みから泣き声をあげていました。
「まあどうしようねえ、お国さん、おやまさん、あれ、うちの男衆がみんな殺されちまうじゃないか、わたしたちはどうなるんでしょうねえ、親方さん、どうしましょう、助けて下さい、助けて下さい」
「そんなに騒がないで静かにしておいで、そのうちにお役人が来て鎮《しず》めて下さるから。何だね、お前たちはそんな意気地のない。日頃危ない芸当をして命の綱を渡っているくせに、もう少ししっかりおし、いよいよの時には梁《はり》を伝わっても逃げられるじゃないか」
「それでも親方さん、危ない、どうしましょうねえ、力持のおせいさん、お前は力持だからわたしを負《おぶ》って逃げて下さいな、わたしはお前さんの蔭に隠れているわ」
 平常《ふだん》は危ない芸当を平気でやっている軽業の美人連も、実地の修羅場《しゅらば》では、どうしていいかわからないで一かたまりになって慄《ふる》えていると、そこへ一手《ひとて》の折助と遊び人とが、梯子伝《はしごづた》いにわっと集まって来ました。
「あれ、下へ来ましたよ、怖《こわ》い、親方さん、力持のおせいさん」
 美人連は号泣する。折助どもは先を争うて梯子からこの美人国へ乱入しようとして、わーっと喚《わめ》いて折重なって梯子から落ちました。
 それは力持のおせいさんが、いま必死の場合に、商売物の立臼《たちうす》を目よりも高く差上げて投げて落すと、臼に打たれた折助十余人が一度に転び落ちたものです。
 立臼の一撃で、折助どもも少し怯《ひる》んだが、直ぐに盛り返して梯子や小屋掛の丸太を足場にして、続々と登りはじめました。上からはあり合すもの、衣裳葛籠《いしょうつづら》、煙草盆《たばこぼん》、煙管《きせる》、茶碗、湯呑、香箱《こうばこ》の類、太鼓、鼓、笛や三味線までも投げ尽したが、もう立臼のような投げて投げ甲斐のあるものがありませんでした。力持のおせいさんは、鉄の棒を舞台に置いて来たことを歯噛《はが》みをして口惜《くや》しがるけれども、ここにはもはや莚《むしろ》よりほかに得物《えもの》が
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