なくなってしまったから、やむを得ず莚をクルクルと捲いて、それを打振り打振って、登り来る奴輩《やつばら》を悩ましています。
下では、折助と遊び人と木戸番と口上言いと出方と弥次馬とが、組んずほぐれつ揉《も》み合っていると、近所の小屋からまたまた加勢が来る、弥次馬が来る、それをよそにして、この美人連の隠《かく》れ家《が》を見つけ出した連中はいい気になってこの一角を占領して、美人連を分取《ぶんど》ろうとの興味から、蟻《あり》の甘きに附くが如く、投げられようと払われようと離れることではありません。
それと見て親方のお角は歯咬《はが》みをしながら、
「さあ、みんな、何でもいいから刃物をお持ち、剃刀《かみそり》もここに五挺ばかりあるから分けて上げるよ、舞台で使う脇差《わきざし》、刃引《はびき》がしてあるけれども、これでもないにはマシだよ、傍へ寄ったらその剃刀で、面《かお》でも腕でもどこでもかまわないから、無茶苦茶に切っておやり、その脇差は切れないんだからつっついておやり、眼玉でも鼻でもなんでも遠慮することはないから突いておやり、なんにも持たない人は簪《かんざし》をしっかりと持っていて、いよいよ傍へ来た時に、面の真中へ突き通してやるんだよ、もし刃物を取られたら喰いついておやり、どこでもかまわず喰いついて引っ掻いておやり。おせいさん、お前は力持だから、お前をみんなが恃《たの》みにしているよ、しっかり頼みますよ、お前さん一人で十人も二十人も手玉に取っておやり、お前さんは刃物を持たない方がいいよ。なに、わたしだって五人や十人は相手にして見せるからね、たかの知れた折助なんぞに、この身体へ指でもさされてたまるものか」
お角は剃刀一挺を手に持って、しきりと一座の美人連を励まして、自分も城を枕に討死の覚悟。
力持のおせいさんはこれに励まされて、持っていた莚を抛《ほう》り出し、素手《すで》になって、登り来る折助|輩《ばら》の鼻向《はなむき》、眉間《みけん》、真向《まっこう》を突き落し撲り落す。その他の連中も、剃刀、脇差、簪の類、得物得物をしっかりと持って必死の覚悟。
「あれ――火がついた」
吊られてあった篝火《かがりび》が、誰が切ったか地に落ちて、それが小屋の一角に燃えうつる。誰も消す人はない。
「あれ親方さん、火が。この小屋が焼けてしまいますよ」
火を見た美人連は、せっかく励まされた勇気が一時に沮喪《そそう》しました。莚張《むしろば》りと幕と板囲いの小屋、火の手は附木《つけぎ》を焼くよりも早い、メラメラと天井まで揚る赤い舌。
「そうれ火事だ」
組んずほぐれつしていた命知らず、さすがに火には驚いて、組打ちをしながら逃げようとして一層の大混乱。美人連を取囲んだ一隊は、早く攻め落して分取りをほしいままにしてから火を避けようと、強襲また強襲。
火の威勢が、いよいよ天井を這《は》い上って、黒い煙と白い煙が場内に濛々《もうもう》と湧き出したその中から、
「うわーう」
旺然《おうぜん》として物の吼《ほ》ゆる声が起りました。これは獣の吼ゆる声。この場の人間どもの怒号、叫喚、愚劣、迷乱を叱咤《しった》するようにも聞きなされて、思わず身の毛をよだてるほどの一声でありました。
ムクは強いけれど、かわいそうに鎖《くさり》につながれていました。こんな騒ぎになる前に誰か気を利かして鎖を解いてやればよかったものを、その方には誰も気がつく者がなかったから、鎖につながれたままでいるうちに、火がその背後から燃え出しました。
「ああムクが繋がれている、ムクは強い犬だ、誰か行って鎖を解いてやらなくては焼け死んでしまう、かわいそうに、誰かムクの鎖を切っておやりよう」
お角は気がついて高いところから叫んだけれども、組み合い押し合いで、誰もそれに応ずるものがありません。
猛犬ムク! お角もよくその猛犬であることは知っています。ムクが吼えると、牛や馬までが竦《すく》んでしまったこともこの道中で実見しました。
ムクが通ると、街道のいずれの犬も尾を捲いて軒の下へ隠れてしまったことも知っていました。桂川筋《かつらがわすじ》で一座の女が一人、橋を渡るとて誤って川へ落ちて押流された時、あれよあれよと騒ぐ人を駈け抜いて、ムクは水中へ飛び入り、着物の襟をくわえて難なく岸へ飛び上ったことも実見しています。旅芸人に因縁《いんねん》をつけたがる雲助や破落戸《ごろつき》の類が、強《こわ》い面《かお》をしてやって来た時にムクがいて、じっとその面を見ながら傍へ寄って行くと、雲助や破落漢《ならずもの》の啖呵《たんか》が慄《ふる》えてものにならなかったことも再三あるのを心得ていました。猛犬ムクは、第一にお君にとって忠実な家来であると共に、この一行にとっては、二つとなき勇敢なる護衛者であったことを、お角は今こ
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