かねえから」
 市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
 この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに供待《ともま》ちをしているのは、ありゃたしかに神尾の草履取《ぞうりとり》」
 金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
 金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」

 それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし馴染《なじみ》の上の其方《そのほう》、遠慮は要らぬ」
 馴染と言われてお君は思わず面《かお》を上げました。しかし、どう思い返しても、こんなお侍に馴染と呼ばれるほど、贔屓《ひいき》にされた覚えはありません。
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている。珍らしいところで会ったからそれで昔馴染のような気がしてツイ、そちをここへ呼んでみる気になったのじゃわい」
「まあ左様でございましたか、伊勢の古市で……」
 そこでお君も思い当る。思い当ったけれども、古市で呼ばれた客の数は多数であります、このお侍がそのうちのドノお客であったかということは、お君の記憶に残っていませんでしたけれども、あの時分に贔屓を受けたことのあるお客とすれば、やっぱりそれでも昔馴染。
「それとは存じませず失礼を致しました、お忘れなく御贔屓下されまして、かさねがさね有難う存じまする」
「それでよろしい、ここへ来て盃《さかずき》を受けてくれ、そして久しぶりであの間《あい》の山節《やまぶし》をまた一曲聞かせてもらいたい」
「恐れ多うございますからこちらで」
「なぜそのように遠慮をする」
 敷居より内へは入らないお君、それをもどかしがって神尾主膳は畳を叩く。
「あの、お座敷では恐れ多うございますから、お庭先で御機嫌を伺った方が、手前の勝手にござりまする、あの古市で致しました通り、このお庭で御挨拶を申し上げましょう」
「なるほど、古市では座敷へ上らずに、庭へ莚《むしろ》を敷いて聞かせてくれたな。しかしそれはあの土地の慣例《しきたり》であろう、ここへ来てまでその慣例を守ろうとは愚《おろ》かな遠慮」
 その時に、この庭の石灯籠の蔭で人の気配《けはい》がするのを、神尾主膳は早くも見咎《みとが》めました。

         八

 金助と離れた役割の市五郎は、ひとりで、例の女軽業の見世物小屋の前までやって来ました。
「なるほど、これが評判の女軽業か、ひとつ見てやろう」
 懐手《ふところで》をしてヌッと、木戸番の前を通り抜けようとして木戸を突かれました。木戸番も役割とは知らなかったものか、それとも知っていながら面《つら》が憎かったものか、とにかく、市五郎がヌッと懐手で中へ入ろうとするのを押えてしまって、
「旦那、お銭《あし》をいただきます、木戸銭をお払い下さいまし」
と言ったから市五郎納まらないで、
「やい、面《つら》を見て物を言え」
 ウンと木戸番を睨みつけましたが、木戸番とはいえ、多少江戸ッ児の気風を持っていたものと見え、肝腎《かんじん》の市五郎の面《かお》を見てかえってフフンと笑ってしまいました。
 市五郎にとっては容易ならぬ侮辱《ぶじょく》ですから、ムカッと怒って、ポカリと一つ木戸番の横面《よこつら》を撲《なぐ》りつけました。
「この木偶《でく》の坊《ぼう》、ふざけた真似をしやがる」
 木戸番は飛び下りて、市五郎の横面を撲り返しました。
「この野郎、俺を見損《みそこ》なったな、俺は役割だ、城内の役割だぞ」
「役割だか薪割《まきわり》だか知らねえが、あんまりふざけた野郎だ」
 木戸番と役割とがここで組打ちを始めてしまうと、最初からこの近いところにいた口上言いや出方《でかた》や世話役の連中、これもあんまり市五郎が横柄《おうへい》で乱暴だから飛んで来て、
「おい、役割さんだというじゃないか、役割さんを撲ってはいけねえ」
 仲裁するふりをしてポカリと撲ります。
「役割さんに失礼をしては済まねえ、八公、謝罪《あやま》ってしまいな」
と言ってまたポカリ、ポカリと撲ります。
「薪割ならばいくら撲ってもいいけれど、役割さんを撲るようなことがあっては、後で申しわけがないから早く手を放したり」
と言ってはポカリ、ポカリ、ポカリと撲ります。
「役割を撲るのはよくねえ、役割を十八も撲るなんてそんなことがあるものか、せめて十三ぐらいにしておけ」
 続けざまにポカポカ
前へ 次へ
全29ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング