た。あとにひとり残された兵馬。大方あいつらはここだけでは飲み足りないで近所の居酒屋へでも飲みに行ったものだろうと思いました。それで兵馬は落着いて眠ることができました。
 その夜中に俄然《がぜん》として兵馬の夢が破られたのは、凄《すさま》じく吠える犬の声からであります。
 兵馬はその犬の声で夢を破られると同時に、外で、
「痛ッ」
と絶叫する人の声。ガバと刎《は》ね起きて雨戸を推《お》し、燭台を取って外の闇を照して見ると、二人とも打倒れてウンウンと唸っているのは金助と木莵入《ずくにゅう》であるらしい。その傍に立っている人の影が一つ。
「もし、あなたは宇津木様ではございませんか」
「エエ?」
 外から呼ばれたわが名。それは女の姿であり女の声であることだけはたしかです。
「もし、わたしは君でございます、伊勢の大湊《おおみなと》を出る時に船でお世話になりました、あの君と申す女でございます」
「ああ、お君どのか」
「そんなら宇津木様でございましたか、よいところでお目にかかりました」
「不思議なところでお目にかかる、ともかくもこれへお入りなさい」
「御免下さいませ。ムクや、このお方はわたしの御恩になったお方ですから吠えてはいけません」
「ああ、その犬は、お前さんの犬であったか、昼のうちにこの先の原の道で見かけた犬。そこに怪我《けが》しているのは誰じゃ。おお、ここの堂守と途中から一緒に来た男、さてこそ何か仔細《しさい》のありそうな」
「これには長いお話がござりまする。この人たちは、わたしに向ってよくないことをしましたから、それでムクが怒ってこんな目に会わせたのでございます、お気の毒でございますけれど、こうしなければわたしが助からないのでございますから、どうかムクの罪を許して下さいまし、ムクが悪いのでございませんから」
「なんにしてもこのままにはすて置けぬ」
 兵馬とお君とは、力を合せて木莵入と金公とを家の中へ担《かつ》ぎ込んで、ムクに噛まれた傷を介抱《かいほう》してやりました。

         十三

 兵馬とお君とは思いがけない対面でありました。お君の語るところによれば、一蓮寺の火事の時、椎《しい》の木の下に昏倒している間に、自分は誰にか助けられて見知らぬところへつれて来られたが、その助けたというのはここにいる金助で、連れて来られたのはこの堂守の家であります。
 堂守はこの明神の御輿倉《みこしぐら》の中へ自分を隠しておいたということ、それは金助の頼みで、今宵は入道と二人、酔っぱらって来て、自分をまたつれだして妾にするとか女郎に売るとかいっているところへ、突然にムクが現われてこの有様となったということです。
 お君はまた、兵馬と別れて舟から上って以来のことを落ちもなく語ると、兵馬は飽かずに聞いていて、お君の身の上に波瀾の多いこと、そのたびごとにムクの手柄の大きなことに感嘆せずにはおられませんでした。
「ああ、それで思い当った。この犬がどうも尋常の犬でないと思ったら、いつぞや伊勢の古市の町で、槍をよく使う小さな人、あまりに不思議の働き故、頼まれもせぬに槍を合せてみたところ、その傍にいた一匹の黒い犬、その面魂《つらだましい》、ちっとも油断がならなかった。さてはこの犬であったか」
 二人の話はそれからそれと続きました。その時、不意にけたたましい警板《けいばん》の音。
 警板はこの堂のすぐ背後《うしろ》、杉の大木に掛けてあったのを、いつのまに抜け出したか、そこへ上って堂守の入道が力任せに叩いているのです。
「あの音は?」
 兵馬もお君も驚きました。
 二人がその音に驚くと、ムクも首を上げて尾を振ります。
 そうすると、わーという人声。早くもそれと覚《さと》った宇津木兵馬は、
「お君どの、こりゃ大事|出来《しゅつらい》、早く逃げにゃならぬ」
「何でございましょう、あの音は」
「ここの堂守が抜け出してあれを打った、それで村の人を集めている」
「わたしたちは何も悪いことは致しませぬ」
「もとより悪いことはしないけれども、何をいうにもこっちは旅の身、向うは土地馴染のある人、悪い名を着せられても急には明《あか》りが立たぬ、そのうち血気に逸《はや》る土地の人、どのような乱暴をすまいものでもない、今のうちに早く逃げなければならぬ」
 戸の外では人の声が噪《さわ》がしい。
「泥棒が入ったぞ、俺もこの通り傷を負ったが、甲府から来た金助は殺された、お堂の本尊様も明神の御宝蔵も荒された、賊はまだ若い、若い前髪の侍と、女が一人に犬が一疋、その犬が強いから噛《か》まれないように用心さっしゃい」
 警板の木の上で入道がおおいに叫ぶ。
 兵馬はお君を促《うなが》して一目散に逃げ出しました。
 大並木をくぐり抜けて、堤を駈け下りると釜無河原。
 兵馬はついに堪《こら》え兼ねて、
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