残《なごり》であることは申すまでもありませんが、その風聞《ふうぶん》は兵馬の耳へはまだ入っていませんでした。
 その土手のところも通り過ぎ、竜王村というところへ出ようとする広い畑の中道で、
「頼むよう、助けてくれ!」
 白昼とはいえ、人通りのあまりないところで助けを叫ぶ人の声、
「頼む! 頼む! 助けてくれ」
 足を留めて見ると、およそ二町ばかりを距《へだ》てた道の傍らの柿の木と覚《おぼ》しい大きな木の上で、しきりに助けを呼んでいる者がある。
 これはおかしい、木の上で、ひとりで呼んでいる。気狂《きちが》いではあるまいかと兵馬は思いました。木の上に登って助けてくれというのは、たいてい大水の場合に限るようです。下を見れば水も何もありはしない、尋常平凡な畑道の中で、木の上から助けを呼ぶのはおかしいと思いながら、宇津木兵馬はその方へ急いで行って見ると、木の下に真黒な動物。
 なるほど、犬に逐《お》われたな、狂犬《やまいぬ》だろう、大きな犬だ、あれに逐いつめられて木の上へ登って、そこから助けを呼んでいるというのは笑止《しょうし》なことだ、その声を聞けば子供でもないようだが、大の男が犬に逐われて助けてくれは、いよいよ以て笑止なことだと、兵馬は微笑しながら木の下へ近づくと、
「どうか助けて下さい、その犬を追い払って下さい、狂犬《やまいぬ》でございます。この通り向脛《むこうずね》を掻払《かっぱら》われて、着物なんぞもズタズタでございます、すんでのことに命を取られるところを、やっとここへ逃げ上ったんでございます、そこに附いていられちゃあ逃げることができません、どうか犬を追い払っておくんなさいまし、助けておくんなさいまし」
 木の上にいた男は半狂乱で叫んでいます。
「叱《しっ》!」
 兵馬が犬を叱《しか》ると、犬は首を振向けてブルッと身を慄《ふる》わせました。
 その時、
「見たような犬だ」
 兵馬は一見してその非常なる猛犬であることを知り、同時にまたどこかで見たことのあるような犬だとも思いましたけれど、咄嗟《とっさ》にはそれと思い当ることもありません。
「叱!」
 兵馬は小石を拾って覘《ねら》いをつけると、犬はまた後退《あとずさ》りして、兵馬の面《かお》を睨《にら》みながら唸《うな》る。
「叱!」
 兵馬は石を振り上げて追う。犬は少しずつ後退り。
「どうかその犬をお斬りなすって下さ
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