おきますよ。あいつはね、人質《ひとじち》になるんですから、大事な代物《しろもの》ですよ。役割がよくなりなすったら、御相談をするつもりでわっしがいいところへ隠しておきますがね、役割、これが癒《なお》ったら、あいつを妾にしておしまいなさいまし」
十二
宇津木兵馬が単身で、白根の山ふところを指して甲府の宿を出かけたのは、一蓮寺のあの騒ぎの翌日のことでありました。
秋もすでに晩《おそ》く、国をめぐる四周《まわり》の山々は雪を被《かぶ》っています。風物と人の身の上を考えると兵馬にも多少の感慨があります。このたびこそはと思うて、いつも心は勇むけれども、旅から旅を歩く間にはずいぶん果敢《はか》ない思いをするのです。
兵馬はこの頃になってようやく、七兵衛の挙動に不審の点を発見してきました。片腕を落されたがんりき[#「がんりき」に傍点]という男との話しぶり、その調子が自分らと話をするのとはだいぶ違ったところがある。七兵衛の挙動に合点《がてん》のゆかぬ節々《ふしぶし》を感づいてみると、そこにもまた多少の心淋しさが湧いて来ないわけにはゆきません。
そこで、このたびの山入りも七兵衛には置手紙をしただけで出かけてしまって、白根の山めぐりをしてから後は、また次第によっては東海道筋へ廻るのだなと思いつつ歩いて行きました。
一蓮寺の境内を通りかかって見ると、どうでしょう、昨日あれほど賑《にぎお》うた見世物小屋のあたりは、すっかり焼けてしまって、祭礼も臨時休業のような姿で、焼跡のまわりには、消口《けしぐち》を取った仕事師の連中が立ち働いている有様を見て、昨夜の火事はこんな大きなことになったのかなと、舌を捲きながら通り過ぎてしまいました。それから荒川の土手のところを歩いて行くと、土手の上の雑草が踏み躪《にじ》られて、血痕《けっこん》があちらこちらに飛んでいます。
兵馬は、それがまさしく人間の血であるらしいから少しく驚かされました。人間の血であってみると、四辺《あたり》の草木の荒された模様から見て、よほどの人数が入り乱れて争ったものとしか見えません。祭礼で気が立ったあまり、ここで血気の連中が大格闘をやったものだろうと、兵馬は心の中で推察しました。
これは昨夜の折助《おりすけ》の狼藉《ろうぜき》と女軽業の美人連の遭難、その血の痕《あと》というのはムク犬の勇猛なる働きの名
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