の場合において思い出さないわけにはゆきません。
「ムクを解いてやりさえすれば、ここにいる折助どもなんぞ幾人来たって怖くはない、ナゼ早くそこに気がつかなかったろう、力持のおせいを恃《たの》みにするよりは、あのムクの方がどのくらい強いか。ああ、早く鎖を解いて、このやつらに嗾《け》しかけて噛み散らかさしてやりたい、誰かムクの鎖を解いてやるものはないか」
お角は自衛の剃刀を逆手《さかて》に持って、一方には寄せ来る折助の強襲に備えて味方を励まし、一方には繋がれたムクの方を見て焦《じ》れに焦れたが、
「ええ、仕方がない、ああしておけばムクは焼け死んでしまう、おせいさん、力持のおせいちゃん、お前はわたしに代ってここを守って、みんなの指図をしておくれ、わたしは今ムクを助けて来るから、ムクの鎖を解いて来るから」
「親方さん、危ない」
「ナニ、大丈夫だよ」
お角は剃刀を口にくわえて、着物の裾をキリキリと捲《まく》る。
今でこそ一座の親方になって自分は舞台へ立たないけれども、お角もこの道で叩き上げた女、高いところから舞台の方を見下ろして、人の頭の薄いところを見定めてヒラリと躍らして飛び下りた身の軽さ。
お角が下へ飛び下りたのを見ると、
「それ、美《い》い女が飛び下りた」
登りあぐねていた折助が、折重なってお角の方へ抱きついて来る。
「何をしやがるんだい、折助め」
剃刀を振ると、鼻梁《はなばしら》を横に切られた折助の一人が、呀《あ》ッと言って面《かお》を押える、紅殻《べにがら》のような血が玉になって飛ぶ。
「この阿魔《あま》、太え阿魔だ」
大勢の折助が、お角ひとりに折重なり折重なってとりつく。
「何をしやがるんだい、お前たちの手に合うような軽業師とは軽業師が違うんだ、ざまあ見やがれ」
お角は血に染《し》みた剃刀を打振って、群がり来る折助の面を望んでは縦一文字、横一文字に斬って廻る。けれども、多勢《たぜい》を恃む折助、賭博打《ばくちうち》、後から後からと押して来る。揉《も》まれ揉まれてお角の帯は解けた、上着は辷《すべ》り落ちる、それを引っぱる、引きちぎる。真白な肉《ししむら》。お角はその覚悟で、下には軽業の娘の着る刺繍《ぬいとり》の半股引《はんももひき》を着けていた。剃刀一挺を得物の死物狂《しにものぐる》い、髪が乱れ逆立って、半裸体で荒れ狂う有様、物凄《ものすご》いばかり。し
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