かねえから」
市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに供待《ともま》ちをしているのは、ありゃたしかに神尾の草履取《ぞうりとり》」
金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」
それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし馴染《なじみ》の上の其方《そのほう》、遠慮は要らぬ」
馴染と言われてお君は思わず面《かお》を上げました。しかし、どう思い返しても、こんなお侍に馴染と呼ばれるほど、贔屓《ひいき》にされた覚えはありません。
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている。珍らしいところで会ったからそれで昔馴染のような気がしてツイ、そちをここへ呼んでみる気になったのじゃわい」
「まあ左様でございましたか、伊勢の古市で……」
そこでお君も思い当る。思い当ったけれども、古市で呼ばれた客の数は多数であります、このお侍がそのうちのドノお客であったかということは、お君の記憶に残っていませんでしたけれども、あの時分に贔屓を受けたことのあるお客とすれば、やっぱりそれでも昔馴染。
「それとは存じませず失礼を致しました、お忘れなく御贔屓下されまして、かさねがさね有難う存じまする」
「それでよろしい、ここへ来て盃《さかずき》を受けてくれ、そして久しぶりであの間《あい》の山節《やまぶし》をまた一曲聞かせてもらいたい」
「恐れ多うございますからこちらで」
「なぜそのように遠慮をする」
敷居より内へは入らないお君、それをもどかしがって神尾主膳は畳を叩く。
「あの、お座敷では恐れ多うございますから、お庭先で御機嫌を伺った方が、手前の勝手にござりまする、あの古市で致しました通り、このお庭で御挨拶を申し上げましょう」
「なるほど、古市では座敷へ上らずに、庭へ莚《むしろ》を敷いて聞
前へ
次へ
全58ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング