て行っても邪魔《じゃま》にはなるまいから」
そう言われてお君は、手慣れた三味を抱えて小屋の裏を出ました。ちょうど、空が澄んで月が出ていました。
時は秋の末でも、小屋の中の蒸暑い空気から外へ出てみると、ひやりと身に沁《し》みる寂しい心。三味を抱えて客に招かれて行くわが身の影を見ると、間《あい》の山《やま》の過ぎし昔が思われます。故郷を出でて身はいま甲州の山の夜の露。わずか三月とはたたぬ間に変れば変るものかな。それにつけてもムクを連れないのが、なんとも言われず心細くてたまりません。古市《ふるいち》の大楼へ招かれては、夕べあしたの鐘の声を古調で歌って聞かせる時、追っても叱ってもムクばかりは離れることもなかったのに、今宵《こよい》他郷で久しぶりに、三味を抱えて月にうつるわが影が、たった一つであることが悲しくなってハラリと涙をこぼします……ムクは死んだわけでも殺されたのでもなんでもなし、つい呼べば来るところにいるのだけれど、お君は昔を思い出したからつい泣いてしまいました。
七
「役割《やくわり》、今日は一蓮寺のお開帳に行ってみようじゃござんせんか」
金助といって小才《こさい》の利く折助。
「そうよな、たびたび呼出しを受けてるんだから行ってみてもいい」
役割の市五郎は、金助から誘われて一蓮寺へ出かけてみようという気になったのは、一蓮寺の祭の夜は大きな賭場《とば》が開けているからです。
「お伴《とも》を致しやしょう、お伴を致しやしょう」
二人は相携えて城内から一蓮寺をさして出かけました。
「神尾の殿様にも困りものでございますな、ああなると手が附けられませんからな」
金助がいう。
「むむ、まったく困りものだ、甲府勝手へ廻されたのを自暴《やけ》で、ああしておいでなさるんだから、何をするか知れたものじゃねえ。金公、お前ぬからず目附《めつけ》をしていてくれねえと困る」
「へえ、承知でございます、お頼まれ申した通り、神尾の殿様のなさることは一から十まで、わっしが方へ筒抜けになっていますから、今日なんぞも一蓮寺の和歌《うた》の会へお出かけなさって、まだお帰《けえ》りのねえことまで、ちゃんと心得ているのでございます」
「そうか、大将もう一蓮寺へ出かけているのか。では向うへ行って、変なところでぶつかるかも知れねえ。金公、ここいらで一杯飲んで行こう、中へ入ると落着
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