「あの人たちは、まだこれから芸にかかるんだから身体があいてないよ」
「このまんまでは失礼でございますね」
「男衆の手もすいていないし、わたしが、ちょっと島田に纏《まと》めて上げよう」
「済みません」
「どうせ碌《ろく》なことはできやしないけれど、手っ取り早いのでは若い時から自慢なのよ」
 鏡台の前でお角は、お君の真黒な髪を梳《す》きながら、
「君ちゃん、お前の毛はよい毛だねえ、こうして掴《つか》んでいると指が染まりそうだよ。そうしてお前さんには島田がいちばんよく似合ってよ、もう二三年すると丸髷《まるまげ》が似合うようになるだろう。わたしもお前さんを、いつまでもこんなところへ置くのは惜しいと思ってるんだよ、だから早くなんとかして上げたいと思っているんだから、そのつもりで稼《かせ》いで下さいよ。そのうちに容貌望《きりょうのぞ》みで玉《たま》の輿《こし》というようなこともないとは限らないから、くだらないものにひっかからないように。口上言いや折助《おりすけ》なんぞが、いくら色目を使っても、白い歯は見せちゃいけないよ。その代り、身分と身上《しんじょう》の確かな人であったら、年の違いや男ぶりなどはどうでもよいから……」
 こんなことを言いながら親方の女は、見ているまにお君の島田を結《ゆ》い上げてしまいました。
「それでは行って参ります」
「ああ、行っておいで」
 親方の女は、また煙草を吹かしながら、自分が結んでやった島田髷の手際《てぎわ》を、自分ながら惚々《ほれぼれ》と見ています。
「なんだか一人ではきまりが悪い、親方さん、あのムクを連れて行ってもようござんしょう、わたしはムクを連れて行きたい」
「ムクを連れて行く? ムクはこれから梯子登《はしごのぼ》りをするんじゃないか」
「それでも、ムクを連れて行きとうございますわ」
「子供のようなことをお言いでないよ、ムクの梯子登りと火の輪くぐりは呼び物になっていて、あれで一枚看板の役者なんだから、抜くことはできませんね」
「それでは、ムクの芸が済みましたらば、ムクをわたしの迎えに柳屋までよこして下さいな、ほかの方が来て下さるのもよいけれど、ムクをよこして下されば、なおわたしは有難いと思いますわ」
「それは芸が済みさえすればムクを迎えに出してやりますよ。それから、三味線を忘れずに持っておいで、お客様にお好みがなければそれまでだけれど、持っ
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