かんていりゅう》、それを思い切って筆太に書いた下には、鱗《うろこ》の衣裳《いしょう》を振り乱した美しい姫、大鐘と撞木と、坊主が数十人、絵具が、ベトベトとして生《なま》な色。
 そのあたりは押し返されないほどの人混みの中へ、一人の身扮《みなり》卑しからぬ武士が伴《とも》をつれて割込んで来ました。
 頭巾《ずきん》こそ被っているけれども、これは紛《まぎ》れもなく神尾主膳の微行姿《しのびすがた》であります。
「ははあ、江戸名物女軽業大一座」
 神尾主膳もまたこの絵看板を打仰ぐと、
「評判でござりまする、女というので評判なのでござりまする、太夫から下座《げざ》に至るまでみんな年頃の女、それが評判で、ごらんの通り大入りを占めておりまする」
 草履取《ぞうりとり》が説明を申し上げると、
「なるほど、ともかく江戸から出て来たものに違いはなかろう、見物して参ろう、跟《つ》いて来い」
 木戸口に立つと、
「どうやら御重役のお微行《しのび》らしい」
 木戸番が頭取《とうどり》に耳打ちをしました。
 この軽業の一行は両国に出ていた一行。米友を黒ん坊に仕立てた一座。女の軽業《かるわざ》足芸《あしげい》の類《たぐい》は多くは前の通りで、新たに加わったお君が「道成寺」を出すということが人気でありました。

「君ちゃん、御贔屓《ごひいき》があるよ」
 楽屋ではお角《かく》が長い煙管《きせる》から煙を吹いて、
「着物を着替えて面《かお》を直したら、ちょっと御挨拶に行っておいで。正面の桟敷《さじき》に頭巾を被って、お伴《とも》の衆と一緒に見物しておいでなすったあのお方さ、お前さんでなければならないとおっしゃるんだよ、早く行って御機嫌を取結んでおいで。ザラにあるお侍さんとは違って、ことによったら御城代様か御支配様あたりのお微行《しのび》かも知れないよ。早く行っておいで、柳屋に待っていらっしゃると御家来衆がお沙汰に来て下すったんだから」
「お伺いしなくては悪いでしょうか、誰か代りに行ってもらいとうござんすねえ」
「そんなことはできません、お前をお名指しなんだから」
「それでも親方さん、お酒を飲めの、泊って行けのと御冗談をおっしゃると、わたしにはお取持ちができませんからね」
「いい時分にはこっちから迎えにやりますから、安心して行っておいでなさい」
「お鶴さんか、お富さんが一緒に行って下さるといいけれど」

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