見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」
「みんな中で笑っている」
「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」
「そうですか」
「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば言語道断《ごんごどうだん》のものだ。さあ与八、ここに軽業《かるわざ》がある」
「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」
「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」
「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な面《かお》をした娘が逆《さか》さになって、足で盥《たらい》を組み上げて、その上で三味線を弾いてらあ、エライものだなあ。こっちの方は綱渡りか」
 与八は余念なくこの立看板を仰向《あおむ》いて見て行くうちに、
「大評判、印度人槍使い」
 ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。
「先生、この槍使いの面《かお》は、こりゃ何という面だ」
「はははは」
「面も身体も真黒で、眼を光らかして、裸体《はだか》で槍を持って立っているが」
「こりゃ印度人だよ、印度といって天竺《てんじく》のことだ」
「へえ」
「印度から来た槍使いと書いてある」
「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」
「そうだ」
「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」
「黒ん坊とさえ言うからな」
「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」
「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」
「へえ」
「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」
「ずいぶん黒いなあ」
「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました稀代《きだい》の槍使いはこれでござい、ごらんの通り、身の丈わずか四尺一寸なれども、槍を使うては神妙不可思議、これまでこの男の槍先に斃《たお》されましたところの虎が三十八頭、豹《ひょう》が二十五頭、そのほか猛獣毒蛇をこの一本の槍先で仕留めましたること数知れず、或る時ヒマラヤ山の麓におきまして不意に一
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