。ほんとに忌々《いまいま》しい畜生ったら」
金助は兵馬に礼を言うことを忘れて、犬の悪口ばかり言います。
「いったい、この村のやつらが悪い、あんな性質《たち》の悪い狂犬《やまいぬ》を放し飼いにしておくのがよろしくねえ、叩き殺してしまやがりゃいいんだ」
今度は村の人へ飛沫《とばっちり》。
この男はしきりに狂犬呼ばわりをするけれど、兵馬は決してあの犬を狂犬とは思っておりません。
「さて、お前さんはこれからどこへ行かれるな」
「ついそこの竜王村というところまで参りますんで」
「帰りに、また犬が出たらなんとなさる」
「脅《おどか》しちゃいけません、もう懲々《こりごり》でございます」
「しかし帰りには必ず出て来る」
「冗談《じょうだん》じゃありません、こんど出やがったら、村の若い衆を大勢たのんで叩き殺してしまいます」
「そんなことをするとかえってよろしくない。察するのにお前は、何かあの犬に怨《うら》みを受けるようなことをした覚えがありそうじゃ」
「驚きましたね、いくら人間が下等に出来上っていたからと申しまして、まだ犬に恨みを受けるようなことをした覚えはございません」
「犬というものは、三日養わるれば生涯その恩を忘れぬ代り、ひとたび受けた恨みもまた死ぬまで覚えているということだ。どうかするとお前は、あの犬に対して意地の悪いことをした、その祟《たた》りを受けて見込まれたものと、どうもそうしか思われぬ」
「そんなことは決してございませんよ、第一、あんな大きな黒犬を見るのは今日が初めてなんでございますから。初めて見たものに恨みを受けるはずがないじゃございませんか、狂犬《やまいぬ》の人食《ひとくら》いに違いございませんよ」
「とにかく、わしもあちらへ行く者、竜王村まで一緒に行きましょう」
兵馬は金助を連れて竜王村へ入ります。この時分から時雨《しぐれ》の空模様が怪しくなってきました。
「降らなけりゃようございますね」
宇津木兵馬は一緒に竜王村の方へ入る途《みち》すがら話して行くと、この金公という折助がいかにもくだらない人間であることを知りました。下手《へた》に優しく話してゆくと、直ぐ附け上ってしまう、そうして今の先、木の上で助けてくれ助けてくれと叫んだことなどは打忘れて、自分の得意げなことをベラベラ喋《しゃべ》る。兵馬はなるほどくだらない人間だと思って、いいかげんに話していると
前へ
次へ
全58ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング