ると今いう通り両方の財産を振われてしまう、財産だけならよいが、女のことから出来心、人の命にかかるようなことにならねばよいが」
「何とかして上げたいものでござんす」
「うっかり出ると巻添えを食う。いや、京都あたりではこの手で浪人者にひっかかって、女房や娘を奪われたり家を潰《つぶ》されたりした者が幾人もある、よくない時勢だ」
「あれ、あんなに苦しがっておいでなさる御様子、誰ぞ口を利《き》いておやりなさるお方はないものか」
「抛《ほう》っておけ、あれが手だから責め殺すようなことはない」
「それでも」
「また誰かやって来たようだ、こりゃ今夜は夜通し眠れぬわい」
「もし、あなた様」
「何だ」
「あまりお気の毒でござんすから、ちょっと行って口を利いておやりなされたら」
「わしに仲裁に出ろというのか」
「この辺の人は、まるきり山の人でござんすから、とても納まりはつきますまいと存じます、あなた様が、ちょっと口を利いてみておやりなされたら――」
「駄目、駄目、そんなことをするとかえって藪蛇《やぶへび》じゃ、見込まれたが望月の因果よ」
「そんなことをおっしゃっては……あんまり薄情のようでござんす、少しでもこの土地に来ているうちに出来たこと、届かなければそれまででござんすが、こうして土地の人が総出で心配をしておりまする中で、わたくしどもも何とかして上げたいもの、できないまでも……」
「待て、待て、この間、山崎が書いて行ってくれた手紙、甲府の勤番へ宛てての紹介状があったはず、あれを出して見せてくれ」
 竜之助はお徳の話とは別に、思い出したように手紙のことを言うと、お徳は机の抽斗《ひきだし》から取り出した一通。
「その表書《うわがき》の宛名になんと書いてあるか読んでみてもらいたい」
 竜之助は今までそれを打捨てておいたが、この場合に思い出すと、お徳は覚束《おぼつか》なげにそれを読んで、
「御組頭神尾主膳様と書いてござんす」

         九

 広いところを三間《みま》も打払って、甲府勤番の役人が詰めています。役人二人は床の間を背にして大火鉢の前に睥睨《へいげい》している左右に、用人、若党のようなのが居並んで、その前には望月の若主人が両手を後ろへ廻されて、その間を十手《じって》でコジられて苦しがっています。
「さあ申し上げてしまえ、お上《かみ》のお調べによれば古金二千両、新金千両、そのほか太鼓判《たいこばん》の一分が俵に詰めて数知れず、たしかに其方《そのほう》の家屋敷の中に隠してあるに相違ない、ここで申し上げてしまえばお慈悲がかかって不問に置かれる、強情《ごうじょう》張って隠し立てを致すにおいては罪が一族に及ぶぞよ」
 厳《おごそ》かに言い渡しているのは意外にも先日、甲府の旗亭で、神尾主膳と酒を飲んでいた折助《おりすけ》の権六でありました。それがいつのまに出世したか、威儀厳然たる勤番格の武士の形になって、調べ吟味の指図役《さしずやく》に廻っていると、慄《ふる》え上っている望月の若主人は、
「どう致しまして、金銀を隠し置くなどとは以てのほか、先刻、家屋敷の隅々までも御捜索くだされた通り。また手前共の財産、すべて記録に差上げたものに寸分いつわりはございませぬ、お吹替《ふきか》えのありまするたびに、員数を改めて差出しまする古金新金、それを隠し置きまするような覚えは毛頭《もうとう》ござりませぬ、御念の上ならば、もう一応、家屋敷をおさがし下されまするように」
 畳へ額を擦《す》りつける。
「黙らっしゃい、其方の隠しておくところが家屋敷ときまったものではなかろう、世間の噂では持山の穴蔵《あなぐら》の中へ、先祖代々積み隠しておく金銀は莫大《ばくだい》とのこと、お上お調べの額《たか》はいま申す通り古金二千両、新金千両、別に一分の太鼓判《たいこばん》若干とのことなれば、内実《ないじつ》は暫く不問に置かれる、但し、右の古金、新金の在所《ありか》はこの場で訊《ただ》して帰らねば、身共役目が立ち申さぬ」
「これは、いよいよ以て御難題、さらさら左様な儀は……」
「これ、まだ強情を申しおるか、責めろ」
「申し上げろ」
 十手を腕の間へ入れてコジる。
「ア痛、ア痛!」
「痛いか」
「御無理でございます」
「泣いてるな。これ貴様も、苗字帯刀《みょうじたいとう》許されの家に生れた男ではないか、泣面《なきづら》かかずと潔《いさぎよ》く申し上げてしまえ」
「知らぬことは申し上げられませぬ、存ぜぬことは……あ痛ッ」
「これこれ望月、僅か三千両の金のために貴様がこうして窮命《きゅうめい》を受けるばかりではなく、あの八幡村から来た貴様の花嫁も追ってこんな目に会うのだぞよ」
「ええ、あの女房が?」
「知れたこと、亭主を責めていけなければ女房にかかる、それでわからなければ親へかかる。どうだ、これというもみんな其方が強情を張るからじゃ、僅か三千両の金、金が惜しいか女房が可愛いか」
「御無理でございます、御無理でございます」
「はははは、では女房が御城内へ引っ立てられ、親たちが縄付《なわつき》になっても、三千両の金は出せないと申すか」
「三千両などと申す大金が……」
「黙れ黙れ、先祖以来、公儀の眼を掠《かす》めて貯えた金銀が唸《うな》るほどあるくせに、三千両は九牛《きゅうぎゅう》の一毛《いちもう》。のう御同役、遠いところへ隠してあるならば、なにも古金の耳を揃えなくても、今時《いまどき》通用する吹替物《ふきかえもの》でも苦しゅうはござらぬてな」
「いかさま、三千両の数さえ不足がなければ、板金《はんきん》であろうと重金《じゅうきん》であろうと、そこは我々が上役へよしなに取計らう」
 同役二人が面を見合せるところへ、
「もしお役人様、ただいま、あなた様方にお目にかかりたいと、一人のお武家《さむらい》がこれへお見えになりました。お名前は水戸の山崎譲と申せばおわかりになると申しますのでございます」
 宿の主人が怖る怖る、遠くの方から平身低頭しての取次であります。

 折助には渡り者が多い。もとは相当の素性《すじょう》であっても、渡って歩くうちに、すっかり折助根性《おりすけこんじょう》というものになってしまいます。
 折助の上には役割《やくわり》、小頭《こがしら》、部屋頭《へやがしら》というようなものがあって、それは折助の出入りを司《つかさど》り、兼ねてその博奕《ばくち》のテラと折助の頭を刎《は》ねるが、これらは多少、親分肌の気合を持っている。渡り者の折助に至って、はじめて折助根性がよく現われるのです。
 彼等の仕事は、カッパ笊《ざる》を担ぐことと博奕をすることぐらいのもので、給金はたいてい二貫四百、一年中のお仕着せが紺木綿《こんもめん》の袷《あわせ》一枚と紺単衣《こんひとえ》一枚。とてもそれではうまい酒が飲めないから博奕をする、博奕をするのは性質《たち》のよい方で、性質の悪いのになると人の秘密をさぐり、それを種にうまい汁を吸おうとする。
 折助に向って、これは内密《ないしょ》だがねと言って話をすれば、得たり賢しとそれを吹聴《ふいちょう》する。また人の内密、ことに情事関係などを探るにはぜひとも折助でなければならない働きがあるので、旗本の用人などが、これを利用してお妾《めかけ》の身持ちなどを探らせる。お妾の方でも、それをまた逆に利用して、材料を提供する。そういう場合が折助の得意の場合で、時とするとそれを踏台に、折助には過ぎた出世をすることがあるのです。
 場合によっては折助が、士分の者の前へあぐらをかいてタンカを切るようなことがあります。また地道《じみち》の商人やその他の平民に向って、折助は士分面をして威張り散らすことがあります。そうして折助は、大手を振って手柄顔をすることがあります。
 誰も折助を相手に喧嘩をしたくないから、それで避けている。そこに折助存在の理由があるので、うまく利用すれば、また相当の使い道もあるのです。うまく利用するというのは、意気でもなく然諾《ぜんだく》でもなく、ただこれ銭《ぜに》。
 銭も現金でなければ決して彼等を動かすことはできません。大した金は要らない、一杯飲むだけの銭を現金で握らせさえすれば、その酒の醒《さ》めない間は大抵の御用はする。その酒が醒めてしまえば、別に注ぎ足しをしない限り御用をつとめることはしないのです。
 有為《ゆうい》の士を心服させることのできないものが、この折助を使用する。歴然《れっき》とした旗本でありながら神尾主膳は折助を使用して、人を陥《おとしい》れなければならなくなったとは浅ましいことです。甲府勤番に落ちたことは、どうも仕方がないけれど、折助を使用して人の内密を探り、それを種に小策を弄《ろう》することは、よくよく見下げた心になったものです。
 しかしながら、ここへ神尾主膳の仮面《めん》を被《かぶ》って来た折助の権六は大得意でありました。彼は勤番支配にでもなりすました心で今、その威権のありたけを示しているところへ、不意に水戸の人、山崎譲というものが尋ねて来たと聞いて少しく狼狽《ろうばい》しました。
「ナニ、水戸の人で、山崎なにがし?」
 眼をパチパチさせてみたが、本人の神尾主膳はその人を知っているかも知れないけれども、権六の神尾はそんな人を知らない。
「今は忙しいから、後刻面会を致す、いずれかへ無礼なきように御案内申しておけ」
「委細、承知致しました」
「水戸の山崎……お前は知っているか」
 権六は、少しく不安心になってきたものだから、後ろの席でこれも擬《まが》い勤番の木村に尋ねると、権六とは負けず劣らずの代物《しろもの》で、岡引《おかっぴき》を勤めていた男。
「お前は知らねえのか、ついこの間お邸に見えた藤崎周水という易者《えきしゃ》がよ、あれが実は水戸の人で山崎譲という人だ」
「そうか、あの易者か。あれがまたなんだってこんな山へ来て、こちとらに会いてえというんだろう」
「あれは易者を看板にしているが本当は易者じゃねえんだ、もとは水戸の士《さむらい》よ。御三家の侍だから、こちとらとは格が違わあ。それで本名が山崎譲、うちの旦那の神尾様とは前からのお知己《ちかづき》だ」
「それで、こっちが神尾主膳でここへ乗込んで来たことを聞いて、拵《こしら》えものとは知らねえものだから、いい幸いで会いに来たのだろう、悪いところへ碌《ろく》でもねえ奴が来やがった」
「けれどもなんとか始末をしなくちゃあならねえ、せっかくここまで漕ぎつけたところで、ここで化《ばけ》の皮《かわ》が剥げたんじゃあ、宝の山へ入って馬の皮を持たせられるようなものだ。なんと同役、とてものことにその山崎という奴を、うまく賺《すか》して押片付けてしまおうじゃねえか」
「そいつは駄目だ」
 同役の木村は、せっかく太く結い上げて来た髷《まげ》を惜気《おしげ》もなく左右に振り立てる。
「駄目だとは?」
「とてもとても。その山崎という奴は、こちとらが三人や四人、束になってかかったからとて歯も立つものではない」
「そんなに腕の利《き》いた奴か」
「腕が利いたにもなんにも、香取流《かとりりゅう》の棒を使わせたら、天狗のような腕利《うできき》だ」
「棒を使うのかい」
「先日も、神尾様のところへ二三日|逗留《とうりゅう》している間、殿様が冗談半分《じょうだんはんぶん》に、山崎、この盤へひとつ印をつけてみろとおっしゃると、よし来たと言って笑いながら、仲間《ちゅうげん》の持っていた六尺棒を借りて、一振り振って碁盤へ当てると、どうだろう、その碁盤の上が棒形に筋を引いて凹《くぼ》んでしまった。恐ろしい腕前だ、あの棒が一当り当ったら、こちとらのなまくらはボロリと折れて、腕節《うでっぷし》でも首の骨でも一堪《ひとたま》りもあるもんじゃねえ」
「いやな奴だな」
「全くいやな奴だ」
「そんないやな奴がこの時勢に易者の真似なんぞをして、この山の中までブラブラやって来る気が知れねえ」
「山の中へ来るのは、やっぱり仕事があって来るんだ、あいつは新徴組《しんちょうぐみ》だよ」
「新徴組か」
「今は上方《かみがた》で新撰組となって、近藤勇
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