来てはいけない」
「それでも、あの通り槍をお持ちになって、無理にお通りでござりまする」
「ナニ、槍を持って来た?」
 二人の擬《まが》い勤番《きんばん》は、障子をあけて外を見ると、長い廊下の向うから、人が一人、闇の中を静かに歩いて来ると、そのあとから追いかけるように一人の女が雪洞《ぼんぼり》を差し出しています。
「神尾殿、神尾主膳殿」
 廊下を歩いて来る人は、二間も三間も隔たった向うから神尾の名を呼ぶ。そのくせ、廊下を歩く足どりはゆっくりしたものです。
「チェッ、来やがったな。それにしても、あの声は……」
 二人は廊下の闇を微かな雪洞《ぼんぼり》の光をたよりに山崎の様子をうかがうと、どうやら人が違うようです。
 碁盤へ印をつけた山崎はもっと太った男であった。甲府へ来た時の山崎はあんな士風《さむらいふう》ではなく、易者のような恰好《かっこう》をしていたし、その山崎の声は、もっと太くて力のある声。いま呼びかけた声は低くて沈んで病人のような声です。
「あれが山崎か」
「左様でございます」
「何だ、山崎は病人か」
「お目が御不自由で、それゆえ失礼ながらこのままとおっしゃって、槍を杖に突いて、おいででござりまする」
「そりゃ訝《おか》しいぞ」
 二人は面《かお》を見合せていた時に、廊下を渡って来た人、黒の紋付を着流して腰に両刀、それで九尺柄の槍の石突《いしづき》で軽く廊下の板を突き鳴らしながら、
「珍らしいところで神尾主膳殿、拙者は山崎でござる、山崎譲、山崎譲」
 槍を杖《つ》いて来たのは机竜之助で、
「神尾殿、神尾主膳殿、珍らしいところでお目にかかる」
 早やその部屋近くまで来たから擬《まが》いの神尾主膳は、
「山崎、あの、御身が山崎譲殿に相違ないのか」
「いかにも山崎譲、先日は失礼致した、御免あれよ」
 竜之助はこう言って、槍を携えたままで彼等の部屋の中へ入ってしまいました。
「いつぞや御所望《ごしょもう》になった道具、幸い、この山の中でぶらぶら遊んでいる間に、この通り手に入れた。この上の望月という家にあった槍、拙者はこの通り眼が見えないが、天正以前の作と覚えて申し分がない、柄は竹を合せて作ったもの、賤《しず》ヶ岳《たけ》七本槍の時、あの連中が使った槍に竹の柄があった、竹を削って菊の花形に組合せて漆《うるし》を塗る、見たところでは樫《かし》の柄と少しも変らぬのだが、間違っても折れることはない、結構なものを手に入れた。近いうちに甲府へ行って献上しようと思うていたところへ、貴殿がここへおいであったというは幸い、それでこの通りに押して参上」
 抜身《ぬきみ》の槍を抱えて竜之助は程よいところへ坐り、穂先をズッと燈火《あかり》の方へ向けたから、擬いの勤番連は煙《けむ》に捲かれて、
「なるほど、うむ、その槍が……」
「こういう品は今時《いまどき》、この山国でもなければ滅多には出て来ないわい、いざ神尾殿、よく穂先から込《こみ》の具合まで、鑑定《めきき》して御覧あれ」
 竜之助はその槍の穂先を、擬いの神尾主膳の方へ突きつける。
「なるほど、これは見事な槍、近頃の掘出し物、なるほど」
「御所望とあらば進上致す」
「いかにも珍らしい槍、頂戴して甲府へのみやげにしたい」
「それはお安いこと、進上致そう。その前に一応の鑑定《めきき》が所望」
「いや、我々には目が届かぬ、貴殿の御鑑定では?」
「目のあいた神尾殿に鑑定の届かぬものを、目のない拙者になんで鑑定ができよう」
「しからばこのまま頂戴致す、誰かこの槍を頂戴して床の間へ飾れ」
 擬《まが》いの神尾主膳に附添いの者共はみな集まって来たし、この家の主人や婢僕《ひぼく》までもみな廊下のところに、そっと様子を見に来ている。その向うには、望月家を初め、土地の古老たちまで面《かお》を並べて怖る怖るこちらを見ています。
「いや、神尾殿、槍は貴殿に進上致すが、貴殿の方から拙者も頂戴致したいものがある、なんとお引替え下さるまいか」
「この槍と引替えに何を御所望かな」
「拙者には別に望みはないが、もとこの槍は望月家秘蔵の槍、よって望月家へ相当の謝礼をしてもらいたい」
「望月家へ謝礼とは?」
「もとより金銭に望みはない、先刻お引連れになった望月家の若主人、これは望月家にとって槍よりも大切な品、それとこの槍とお引替えが願いたい、その仲人《ちゅうにん》は山崎譲」
「ナニ」
「この槍と望月の若主人とを引替えてもらいたい」
「黙らっしゃい」
「黙れとは?」
「言わせておけば方図《ほうず》もない、いったい貴様は何者だ、山崎譲の名を騙《かた》って拙者共の部屋へ案内もなく推参する不届者《ふとどきもの》、拙者共の知っている山崎は貴様のような盲目《めくら》ではない、病人ではない、このうえ無礼を申すと手は見せぬぞ」
 擬いの神尾主膳は堪《たま》
前へ 次へ
全25ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング