変ったことは平気らしいけれども、うまい酒の飲めないことが何よりの苦痛と見えて、もとのように江戸の真中で馬鹿遊びをするようなことができないで、時時|折助《おりすけ》を引っぱって桜町《さくらちょう》へ飲みに来たり、こっそりと柳町《やなぎちょう》へ遊びに出たりするくらいのことで、毎日おもしろくもない甲州の山ばかりを睨《にら》めて暮らしていましたが、今宵もそのお気に入りの折助をつれて柳町の旗亭《きてい》へ飲みに来ていました。
「権六《ごんろく》、なんだか酒が酸《す》っぱいなあ」
 権六というのは折助の名、これは江戸から附いて来た渡り者の折助であります。
 折助の前身には無頼漢《ぶらいかん》もあれば、武士の上りもある。この権六は権六が本名でなくて、もう少し気の利いた名前のありそうな折助、前身は百姓町人でもなく、生《は》え抜きの無頼漢でもなく、ともかく神尾が引っぱり廻して酒の相手をさせるだけのこたえはありそうな折助であります。
「へへ、どうも仕方がございません」
 権六はお流れを頂戴する。
「うまい酒を飲みたいなあ」
「御意《ぎょい》の通りでございます」
「何かうまい酒を飲むような工面《くめん》はないかなあ」
「左様でございますねえ」
 二人は睨めくらをする。
「貴様の面《つら》も変らねえ」
「殿様もこのごろはおいとしゅうございます」
「はははは」
 睨めっこをして淋しく笑う。なるほど、これでは酒もうまくなさそうです。
「女を呼んで、一騒ぎ騒がせましょうか」
「それもこのごろでは張合いがないわい、甲府の女どもにまで懐都合《ふところつごう》を見透《みす》かされるような強《こわ》もてで、騒いでみたところがはじまらない、やっぱり貴様の面《かお》を見ながら飲んでいる方がよい」
「いよいよ以ておいとしゅうございます、春や昔というところでございますねえ、笠鉾《かさほこ》の下でお文《ふみ》を読んでおいでなさる覆面のお姿が眼にちらついてなりませんよ。大門口《おおもんぐち》の播磨屋《はりまや》で、二合の酒にあぶたま[#「あぶたま」に傍点]で飯を食って、勘定が百五十文、そいつがまた俺には忘れられねえ味合だ」
「権六、どう考えてみても、どのみち金だな、金が欲しいな」
「それに違いございません、色と金、二つにわけて申しますが金があっての色でございますよ、金さえありゃあ……」
「金が欲しいな」
「金さえ
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