ここは篠井山《しののいざん》の山ふところ、お徳というのは先日、峠の上で竜之助を助けて来た「山の娘」たちの宰領《さいりょう》であります。
お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の筒袖《つつそで》を着て、手拭を被《かぶ》って砧を打つと、その音が篠井山の上、月夜段《つきよだん》の奥までも響いて、縁に腰かけた竜之助の足許から股《もも》のあたりまでが、軽い地鳴りで揺れるのがよい心持です。
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も入用《いりよう》のない身になったけれど、それでも物の音だけはよくわかります。いや、眼が見えなくなってから、耳の方が一層よくなったようじゃ。そうして御身がいま打つ砧の音を聞いていると、月が高く天に在って、そしてそこらあたり一面には萩の花が咲きこぼれているような心持がします」
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござんした……月見草はよい花でございます」
「あれはさびしい花であるが、風情《ふぜい》のある花で、武蔵野の広々したところを夕方歩くとハラハラと袖にかかる、わしはあの花が好きであった」
「先《せん》の人もこの花が好きだと申して、山から取って来ては、この通り庭いっぱいに植えたのでございます」
「御身の先《せん》の良人《つれあい》という人は、なかなか風流人であったと見える。武術の心がけもあったようであるし、文字の嗜《たしな》みもあったというのに、その上こうして庭に花を植えて楽しむというのは、こんな山家住《やまがずま》いには珍らしい人であったようじゃ」
「もとからこの山家の人ではございませんでした」
「どこから来た人?」
「上方の方から参りました、いいえ、縁もゆかりもない人で、ふとした縁から一緒になってしまったのでございます」
「甲州は四方《しほう》山の国、思いにつけぬ人が隠れているそうじゃ。そんなことはどうでもよいが、甲州といえば、わしが生国《しょうごく》はその隣り。ここへ来ると、わしもどうやら故郷へ来たような心持がして、この山一つ向うには、懐しい親子が待っているように思われてならぬわい」
「御
前へ
次へ
全50ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング