「けれども、あの人を一人で置くのはかわいそうだな」
「大丈夫だよ、今に役人が来て、つれて行ってしまうから。ぐずぐずしているとこっちが危ないのだから」
「それでは……里へ行ってるおっ母《かあ》が帰って来ると心配するだろうから」
「だって当分は帰らないと言ったそうじゃないか」
「二月ほど経ったら帰るかも知れない」
「そんな暢気《のんき》なことを、聞いてはいられない」
「おっ母は里へ行って、またほかの人にお嫁に行くんだと言っていたから、もうここへは帰らないのだろう」
「それでは誰も心配する者はないはずだから、早く行きましょう」
「江戸はいいところだろうな、人の話に聞いたばかりで、早く行って見たい見たいと思ったが、今日はおばさんに連れて行ってもらえるかと思うと、こんな嬉しいことはないけれど、この小屋も住み慣れてみると何だか惜しいような気がするね」
この場合に、江戸へ行きたがっていた少年の心をお絹が心あって焚《た》きつけるので、少年はすっかりその気になって、大急ぎで旅立ちの用意をします。このとき奥で、
「御新造《ごしんぞ》、いやお絹さん」
譫言《うわごと》のような声、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の声。
「何か言ってるよ」
耳を澄ますと、
「御新造、いやどうも」
二人は面を見合せて、
「あれ、また何か言っている」
奥では引続いて、
「いよ、お二人様」
二人は奥を見込んで、
「眼が醒《さ》めたのかしら」
奥の声、
「もうこっちのものだ」
お絹忠作はニッコリと笑って、
「魘《うな》されているんだよ」
奥では、つづいて、
「これからがこっちの世界と出る、へん、甲州ばかりは日が照らねえ、入墨がどうしたと言うんだ、これから御新造をつれて、泊り泊りの宿を重ねて鶏《とり》が鳴く東《あずま》の空と来やがる、嫉《や》くな妬《そね》むな、おや抜きゃがったな、抜いたな、お抜きなすったな、あ痛《いて》ッ、あ痛ッ、斬ったな、汝《うぬ》、斬りゃがったな」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の譫言《うわごと》は嵩《こう》じてくる。その間にお絹は忠作を嗾《そその》かして、この小屋を逃げ出してしまいました。
五
今宵《こよい》は月がよく冴《さ》えている。主婦《あるじ》のお徳は庭へ出て砧《きぬた》を打っていると、机竜之助は縁に腰をかけてその音を聞いています。
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